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数万年の時間が崩壊するペリト・モレノ氷河③

ペリト・モレノ氷河のデータをネットでざっと調べてみる。
数千年、数万年の間にアンデス山脈に降り積もった雪は自ら氷塊に姿を変え、最も氷が厚い部分では700メートルに達する。地球の重力に引っ張られ一日に約2メートルずつ流れ下り、破壊的な重さで山脈をくり抜き、大地をえぐり取りながら進んでいく。

氷河の先端は、最後にアルヘンティーノ湖に出会う。
その断面は高さ60メートルあり、数十分おきにその一部が崩壊し、湖面に崩れ落ちるのだ。

ネットも動画もない1997年、断片的な情報を頼りに、「氷河崩落」を見るためだけにパタゴニアを南下してきた。
氷河に最も近いカラファテというおとぎ話のようなかわいらしい小さな町に宿をとる。ちょっとびっくりするほどおいしい夕食のパスタに大満足し、気分良く一番メジャーなツアーを申し込んだ。
「ボートで湖を横断しながら氷河を眺め、崩れる心配のない氷河の端っこを数時間トレッキングし、展望台から氷河崩落を数時間眺められますよ」、という充実の内容だった。お値段もお手ごろだ。

翌日早朝、10人くらいの観光客と一緒に小型バスで宿を出発し、アルヘンティーノ湖の岸辺に立つ。
恐ろしいほど美しく青い壁を湖面から見上げ、ザクザクと氷を踏みしめながら白い迷宮を歩き回り、最後に雪解け水でキンキンに冷やされたシャンパンで乾杯した。

歩き疲れた僕は、氷河から湖を挟んだ展望台にへたり込み、氷壁が崩壊するのをただ待つ。聞こえるのは小鳥のさえずりだけで、何も起こらない。

突然、「ビガギッ」とも「パバシッ」とも違う、表現しがたい音が湖面を渡って氷河の方から響いてくる。氷河内部のどこかで、崩落に向けた決定的なひび割れができた音だ。
広大な壁のどこが崩落するかは誰にも分からない。瞬きを我慢し、目を凝らし見続ける。
そして、突然その一角が、剥がれ落ち、崩れ落ちる。展望台からは小さいかけらに見える塊は、間違いなく高層ビル1本分はあるはずだ。大きいものになると、ステーションビルをミルフィーユ状に重ねたくらいの体積の塊が、例えでも錯覚でもなく、スローモーションで崩壊する。湖面に落下した瞬間、高さ数十メートルの水しぶきが上がり、周囲の森が震え上がるような爆発音がこだまする。
理屈も言葉もない。ツアー客は全員無言で、氷河を見続けた。
気がつくと3時間くらい過ぎていた。

全ては「水」なのだ。数万年前にアンデスの山頂に降り積もった雪が、タイムカプセルのように時間を閉じ込めながら、生物のように固体に姿を変え、じりじりと進み、最後に母なる水に還っていく。ただそれだけのことが、こんなにも圧倒的に美しい。

アフリカ大陸で巨石を積み上げピラミッドを作っていた日も、織田信長が部下の謀反を知り目を血走らせていた日も、連合国と枢軸国が戦車と飛行機で殺し合っていた日も、ここで氷河は降り積もり、前進し、崩壊していたのだ。

人類ごときが見ていようが見ていまいが、生きようが死のうが知ったことではない。ありふれた水という物質の循環が、数万年の時間の流れを有無を言わさず突きつけてくる。ここに来られてよかったと心から思った。

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