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「発酵食の歴史」を読む。現代の常識を疑え(3)

歴史を単純化して、分かりやすくあたかも一貫性のあるかの如く謳う著書が昨今非常に多く、私的に「これは変ではないか」と長らく思っていた。
理由は、様々な環境、人類、生物(微生物やウイルスを含む)らが地球に存在しているのに、どうしてしたり顔で臆面も無く歴史書を書くことが出来るのだろうか?これはもしかして「政治」ではないか?そういう考えを持っていた。ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター「反逆の神話」という本が最近ハヤカワ文庫として出版されたので読んでみたが、実際に思ったのは、私が30年も前の大学生の頃から気づいていたことを語っていた。田中芳樹「銀河英雄伝説」のヤン・ウェンリーの歴史観が好きで、大学に入ってから栗本慎一郎氏に私淑していたせいで、単純な反体制とか、カウンターカルチャーは社会においては「養分」に過ぎず、反体制デモや抗議は「金になる」とばかり社会システムが取り込んでしまうと気づいていた。

発酵食が健康に良いのは、まあ当然なのだが、問題はそこから先を言いたかったので、更新が遅れた。私は「歴史の間違い」を指摘するが、それをもって「抗議」したり、現体制の反逆を企てるという気持ちがまるでない。
私が言いたいのは、「間違い」に関しては素直に改めて、その行動を黙って改める。下手にアピールせず、不言実行するのが最上である。そして行動が良い結果を生むなら、必ずや追随者が自然と生まれる。マハトマ・ガンディーの様に「不服従・非暴力」がなぜ人々を動かしたのか、それはその行動に「共感」があったからに他ならない。

私が、その「歴史的間違い」を全面的に批判しない理由のもう一つ、発酵食は時間が無い人々には非常に面倒であり、糠漬けにしても長期的な出張があれば、すぐに駄目になってしまう面もあったり、微生物コロニーはペットと同じで放置すれば良いというわけでもないのだ。現代社会では、発酵食の多くが、食品メーカーが忙しい人々に対して生産を肩代わり、つまりアウトソーシングされていることで成り立っていることを忘れている。スローライフしたいならば、まずそのことを考えなくてはならない。単純に都市社会からの離脱や反発だけでは何ともならない。「共感」が得られるならば、その社会システムが生み出した、弊害や足かせこそ考えなくてはならないだろう。これは考えると大変難しい問題を孕んでいると思うべきだ。

博物学的思考を持て

単純化を嫌い、複合的な視野と知見、学問に領野があるなどと考えてはならず、徹底した相対化をして全てを鵜呑みにしない(私も含めて)。何より、私はこう思う、こう考えるというのは、現在の見解に過ぎないので、間違いを指摘されれば、素直に変更することを私は辞さない。

とにかく、歴史は発掘調査の新たな証拠が出てくれば今までの「常識」も簡単にひっくり返ることもある。アルフレッド・ウェゲナーの大陸移動説にしても、「常識」になるまでに50年以上もかかり、それも地質調査という非常に地味な証拠が積み上がったことで学会も納得された「結果」だ。


「常識を疑う」というならば、深海生物を知ると良いと思う。例えば口も肛門も無い生物が深海には存在していて、ハオリムシ類は化学合成細菌と共生してて、深海には光も届かないので光合成も出来ない。そこで硫化水素を取り込んで体内の硫黄酸化細菌から栄養を貰っているというものだ。
私は、この「常識」がひっくり返る事実に驚愕したし、逆にニッチな環境に適応すれば「勝ち組」にならずとも「負け組」にはならないことを知ったのである。要は人間は環境に適応したから「裸」になったのではなく、裸になったハンディを背負ったからこそ、「ニッチ」な進化で生き残ったと逆に考えた方が良さそうだ。

栗本慎一郎氏は人間のことを「パンツをはいたサル」と表現されたが、不要なものを抱えたこと(過剰)で、本破壊的な行動(蕩尽)を生み出した。

根源的な「過剰」を抱えているのが人類であることを知るべきで、科学技術、文明、環境について包括的な議論だけではなく、「生命」の定義を人間社会、微生物圏(バイオーム)にまで範疇を広げなければ恐らくは人類は衰退するだろう。
まあ、個人的なことを言わせてもらえれば、人類の繁栄などこれっぽちも興味も無いので、それはそれで結構とは思うし、環境を破壊せず、地球の端っこで細々と生きる方が人類の未来は明るいとすら思うので、今はそれで十分であると思える。

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