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今さらながら、「たま」の「さよなら人類」をかんがえる
最近、久しぶりに「たま」の曲を聴いています。たま、やっぱりいいですね。
自分が好きな曲はYoutubeでカバーを聴いたりもするのですが、たまの曲はあまりそういう気分になりません。たまが歌っている時点で完成されているというか、替えがきかないというか。
今日は今さらながら、たま一番のヒット曲「さよなら人類」の歌詞の意味について考えてみます。歌詞の考察は時に曲を摩耗させるし、無粋だなあとも感じるのですが、自分なりにこの曲をもっと理解したいと思うのでやってみます。もちろん、これは私の勝手な解釈であり、曲を聴いた方が自由に楽しんでいただくのが一番です。特にたまの曲は、理屈っぽく考えるよりも、感じたままに楽しむのが正しい聴きかたなのだと思います。これをきっかけに、「ちょっと(久々に)聴いてみようかなあ」と動画をぽちっと再生して下さったならとても嬉しいです。
二酸化炭素をはきだして あの子が呼吸をしているよ
どん天もようの空の下 つぼみのままでゆれながら
野良犬は僕の骨くわえ 野性の力をためしてる
路地裏に月がおっこちて 犬の目玉は四角だよ
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
アラビアの笛の音ひびく 街のはずれの夢のあと
つばさをなくしたペガサスが 夜空にはしごをかけている
武器をかついだ兵隊さん 南にゆこうとしてるけど
サーベルの音はチャラチャラと 街の空気を汚してる
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
歌をわすれた カナリア
牛をわすれた 牛小屋
こわれた磁石を ひろい集める博士は まるはげさ
あのこは花火をうちあげて この日がきたのを祝ってる
冬の花火は強すぎて 僕らの身体はくだけちる
ブーゲンビリアの木の下で 僕はあのこを探すけど
月の光にじゃまされて あのこのカケラはみつからない
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
さるにはなりたくない さるにはなりたくない
こわれた磁石を 砂浜でひろっているだけさ
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
さるになるよ さるになるよ
* * * * * *
何度聴いてもすごい歌だなあと思います。
では、以下で考察してみます。
① 全体の印象
この曲は全体を通してすごく映像的というか、絵画的であると感じます。曲を聴いていると、それぞれの場面が頭にぽんぽん浮かんでくるんですね。そしていくつもの小さなシーンが集まって、「さよなら人類」というひとつの大きな絵を眺めているような気持ちになります。なんだろう、曼荼羅とかそういう宗教画っぽい絵のような印象があります。
また「木星につく → ピテカントロプスになる」という展開は「進化 → 退化 → 進化 → 退化 …」という繰り返しを連想させます。そういう輪廻のような要素も宗教画のイメージに寄与しているのかもしれません。
あるいはもっとシンプルに、進歩や発展を是と信じ込んでいる人間を皮肉っているようにも思えます。「さるにはなりたくない」と繰り返しながら、「さるになる」ための道を突き進んでいるという構造が、喜劇的でもあり、悲劇的でもありますね。
Youtubeに「たま」が知られるきっかけとなった「イカ天」というテレビ番組がアップロードされているのですが、「さよなら人類」を歌い終わった後で、司会の三宅裕司さんが「(前回歌った「らんちう」と比べて)ずいぶん明るくなっちゃって」とコメントしたのに対し、この曲をつくった柳原陽(幼)一郎さんが「暗い歌だったので、分かってもらえるか心配だった」と答えているのが印象的です。このことから、「さよなら人類」は「暗い世界を明るく歌った」歌なのだと考えられます。
併せて、歌詞の中に本性を失ったものたちが多く登場するのも、どこかひやっとする歌の印象に寄与しているように思えます。「つばさをなくしたペガサス」「歌を忘れたカナリヤ」「牛をわすれた牛小屋」「こわれた磁石」などですね。一方で「武器をかついだ兵隊」だけが本性を維持していることが不気味です。
② 個別の考察
次は歌詞を区切って考察してみます。
二酸化炭素をはきだして あの子が呼吸をしているよ
どん天もようの空の下 つぼみのままでゆれながら
野良犬は僕の骨くわえ 野性の力をためしてる
路地裏に月がおっこちて 犬の目玉は四角だよ
登場しているのは「僕」「あの子」「犬」ですね。
「あの子」は普通に考えれば「女の子」なのでしょうが、「つぼみのままでゆれながら」という歌詞から「なにかの植物」とも考えられます。つぼみを比喩と捉えれば人間でもオーケイなのでしょうが、ここでは植物と捉えます。
「二酸化炭素」「どん天」「野良犬」「骨」といったネガティブな単語の羅列はどこか終末的な香りが漂います。もしかしたらここは、なにか大きな出来事があって、豊かさが失われてしまった世界なのかもしれません。陽の光が届かなくなった世界で植物は十分な光合成もかなわず、「つぼみのままでゆれながら」二酸化炭素を吐き出すことしかできないのかもしれません。
「犬」についての歌詞も示唆に満ちています。「野生の力をため」すとはどういう意味なのでしょう。「僕」を人間であると考えるならば、技術の発展を信じて突き進んできた人間の骨をくわえることが、野生の回復の象徴であるということなのでしょうか。また、目玉が「四角」というのは珍しい表現ですよね。これは「目が点」「目が三角」のように吃驚していることの比喩なのか、ほんとうに四角い目の犬がいるということなのか…
これらと、「さよなら人類」という曲名から想像するに、ここは「人間がいなくなった地球」なのではないでしょうか。
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ
これは素直に捉えれば、「宇宙船に乗った人類が木星に到達した」ということなのでしょう。そして進歩を信じて喜ぶ人間が、実は「ピテカントロプスになる日」のはじめの一歩を歩みはじめたと皮肉っていると捉えられると思います。
ですが、ここではもう少し大胆に想像してみます。先述した「人間がいなくなった地球」に至った原因が、後述する「冬の花火」によって「僕らの身体はくだけち」ったからだったとしたらどうでしょう。科学的根拠はさておき、離散した人間の身体の粒子が宇宙を彷徨い、遂には木星に至ったとは考えられないでしょうか。生物以前となった人間がいつか「ピテカントロプスになる」には、恐らく長い時間を要するのでしょう。
アラビアの笛の音ひびく 街のはずれの夢のあと
つばさをなくしたペガサスが 夜空にはしごをかけている
武器をかついだ兵隊さん 南にゆこうとしてるけど
サーベルの音はチャラチャラと 街の空気を汚してる
「アラビアの笛」ってどんな音がするのだろうとYoutubeで調べて見ると(つくづく便利な時代ですね)、「ネイ」という楽器を演奏しておられる方がいました。ネイは尺八を思わせる乾いた音の楽器でした。「夢のあと」で鳴り響く乾いた笛の音。それはどんな夢だったのでしょうか?
「つばさをなくしたペガサスが 夜空にはしごをかけている」という歌詞は、いかにも「さよなら人類」的でいいですね。本性を失ってなお空へ向かおうとするペガサスの姿が滑稽でもあり、哀しくもあります。
次の兵隊についての歌詞は、全体の中でいくぶん異質です。他のものが悉く本性を失っているのに対し、この兵隊だけが「武器をかつ」ぎ、「サーベルの音」を鳴らしています。またこれは、「人間がいなくなった地球」という仮定とも矛盾します。もしかしたら、この歌では時制が前後しているのかもしれません。
それにしても、サーベルの「音」が街の「空気を汚」すという柳原さんの言語感覚は見事ですよね。
歌をわすれた カナリア
牛をわすれた 牛小屋
こわれた磁石を ひろい集める博士は まるはげさ
ここでも本性を失ったものたちが登場します。壊れた磁石(磁針)というしるべを必死に拾い集めるまるはげの博士の姿が、やはり滑稽で哀しいです。そういえば、地球自体もひとつの大きな磁石ですよね。
余談ですが、柳原さんは「牛小屋」という歌もつくっておられます。こちらもすごくいい歌です。
あのこは花火をうちあげて この日がきたのを祝ってる
冬の花火は強すぎて 僕らの身体はくだけちる
ブーゲンビリアの木の下で 僕はあのこを探すけど
月の光にじゃまされて あのこのカケラはみつからない
まずは細かいことなのですが、先ほどは「あの子」だったのが、ここでは「あのこ」となっています。これは意図的なのかどうか微妙ですが、とりあえず区別することにします。
「この日」というのは文脈と「さよなら人類」というタイトルから考えて、人類が滅亡する日のことなのだと思います。花火によって「僕らの身体はくだけちる」のだから、「花火」は核爆弾のような兵器のことなのかもしれません。あるいは人間だけを選択的に破壊するような何かなのでしょうか…
ブーゲンビリアというのはピンク色の花をつける熱帯性の植物だそうです。花は少しツツジに似ています。満開のピンクの花は美しくもある一方で、どこか熱帯特有の毒々しさを併せ持っているように思えます。
「冬の花火」によって砕け散ったのち、死んだ「僕」の魂が、いくつかの季節を巡って再び花を咲かせたブーゲンビリアの木の下で「あのこのカケラ」を虚しく探しているという情景が、私としてはしっくりきます。
夜空に梯子をかけるペガサス、壊れた磁石を拾い集める博士、あのこのカケラを探し求める僕。すべてを失ったとき、我々はどうしても過去に縋ってしまうのかもしれません。
さるにはなりたくない さるにはなりたくない
こわれた磁石を 砂浜でひろっているだけさ
「こわれた磁石を砂浜でひろ」うだけではさると変わらないではないかと歌い手(僕)は主張しますが、そういう「僕」も先述のように彼女のカケラを虚しく探し彷徨っています。まるで、「さるになりたくない」と強く願うほど、「さるになる」道を加速しながら進んでいるようです。このロジックは示唆に富んでいますね。こういう構造は世の中に多くあると思います。「親父みたいにはなりたくない」と心に誓う少年が、年を追うごとに父親に似てくるように。
さるになるよ さるになるよ
願い虚しく、人類はさるになる道を進み続けます。我々はどこで躓いてしまったのでしょうか。あるいは間違ったことなど何ひとつなく、さるになることは、100パーセント正しい道なのでしょうか。こうなったらさるになることを受け入れるしかありません。動物園の猿山を眺めていると、猿社会もなかなか厳しそうです。集団生活が苦手で、かつ一人でやっていくほどの気力も体力もない私には到底勤まりそうにありません。まだ人間社会のほうがマシな気がします。ああ、やっぱりさるなんかにはなりたくないなあ…。さるなんて木の実や果物をキーキー言いながら奪い合っているだけじゃないか。ああ、さるにはなりたくない、さるにはなりたくないなあ。
………あれ?