結局のところ、自分を一番苦しめるのは自分になってしまうから、そこに気付きたいなぁと思う。
わたしの知り合いに、男の子だけど、いつもスカートを履いている子がいた。
小学校に入る前まで、かわいいものとかスカートとかリボンとか、そんなの好んでいた。
好んでいたのか、男三兄弟の末っ子で、両親がどうしても女の子が欲しかったけど、男の子だけど愛らしいお顔の末っ子に女の子の服装をさせていたのか、どちらかわからない。
けれど、すごくかわいかったから、男の子でも女の子でもどっちでも良くて、洋服も似合ってて、一緒に遊ぶのも楽しかった。
その子が、小学校に入ってからは会うこともほとんどなくなって、合わなくなった。
昔からわたしは、女子か男子かはあまり重要視しておらず。
重要なのは、わたしに危害を加える人なのかどうか。
昔から、うちは日本の田舎が好きな外国人やら、農業を学びにきた外国人やら、議員やら偉いお医者さんやら、訳ありの人やら、障害を持っている人やら、なんやらかんやらが常に誰かがいる状態だった。
父親と父方の祖母が、とても面倒見のいい人だったのか、なんでも受け入れてしまう。
また、母方の叔父は陶芸家で、芸術的な知り合いの外国人や、一癖も二癖もあるような人達と知り合いだった。
だから、わたしの子供の頃の世界観は意外と広くて、田舎の小さな町で育ったけれど、そのわりにはいろんな出会いを経験していたと思う。
いろんな人がいたけれど、わたしに危害を加える人や、傷つけようとする人はいなくてみんないい人だったと思う。今でいう癖強めな人は多かったけれど。
そんなだったので、男の子が女の子の格好をしていることは、そんなに気にはならなかったしおかしいとも思わなかった。
小学校の時に、男の子がお姉さんの鉛筆かなんか可愛いのを持っていた時に、からかわれていて、なんでそんなこと気にするんだろう、と思っていた。
そんな感覚だったからか、あまり馴染めず友達は少なかった。
変だとかからかわれることもあった。
自分の価値観が少数派だと気付き始めた時から、わたしは言葉が少なくなっていった。
言葉を発すると変だ、と言われるからだ。
今まで自分が当たり前だと思った価値観は、変だと認識される。
一般的や普通の答えを出すようにして、自分でも自分が変なんだと思うようになって、人顔色を窺って、自分の価値観を出さないようにした。
出さないようにしているうちに、自分の価値観がわからなくなって、押さえつけてしまって、パンクした。
しかしだ。
多様性と呼ばれる今、わたしの価値観は、認められている。
変だと言われなくなったし、逆に素晴らしい考えと言われたりする。
要するに、わたしは子供の頃から多様性していた。
時代を先駆けしていたんだな。
早すぎたがゆえ、周りの人には認められず、自分が間違っていると押し込めるしかなかった。
それで、身体を壊してしまうなんて、あってはならないことだったんだろうな。
それでも、周りを気にしすぎるこの性格が、自分で自分を苦しめてしまった。
結局のところ、人が自分を苦しめたことによって、その何倍も何十倍も自分が自分を責めて苦しめてしまう。
自分で自分を信じられなくなってしまう。
だけど。
自分で自分を苦しめていることは、意外と自分で気付かない。だから、ずっとずっとずっとずっと、苦しめてしまう。
自分で自分を苦しめることに気づくと、少しだけ楽になる気がするよ。
自分くらいは自分を信じて認めてあげたいな、と。
思うんだよね。
なかなか、難しいけど。