「神様になった日」で泣けなかった理由(ネタバレ注意)
神様になった日、観終えました。
以下僕的な評価点です。(個人的にkey作品で1番面白いと思ったAngel Beats!を各項目80点とした場合の相対評価)
映像音楽:80点 作画とか音楽の良さはよくわかんないんでとりあえずAB!と同じ点数。
キャラデザ:0点 イラスト的な意味だけでなく登場人物の性格行動も含めた評価。感情移入できるキャラであったかを重視。評価対象をひなちゃんに限っていうなら5000兆点。中盤で退場したのが残念です。終盤にそっくりさんが出てくるので注意。
ストーリー(1~8話):60点 そこそこ面白かったと思うけどAB!と比べたらこれくらいかなぁと。
ストーリー (9~12話):0点 _____。(あくまでも個人的感想です)
総評10点くらいです。序盤は面白かったけどキャラの人物像とストーリー(中・終盤)がアレなので妥当だと思ってます。序盤のひなちゃんの活躍がこの作品を無(0点)から有 (10点)に変えたといっても過言ではありません。ひなちゃんがいなかったら0点、無です。
そもそもどういう物語なのか
ボーイミーツガールである。主人公がヒロインと出会ってわちゃわちゃして別れ、そして感動の再会。そんで視聴者号泣___って感じの。
まあほとんどの視聴者が1話の時点でこの展開は読めてるわけで、じゃあどのようなストーリーを経て視聴者はヒロインを守護りたくなるのか、別れのシーンで絶望するのか、再会シーンでクソデカ感情を抱けるのかが大事ってことになる。
ひなちゃんを守護りたくなったか
僕の答えはYESである。当然。僕はシスター服とのじゃロリが好きです。両方あわせもったひなちゃんは最高です。
ただここで注意すべきことがある。ひなちゃんは僕が守護りたいと思うだけでは意味がないのだ。ストーリーを上手く進めるためには「陽太がひなちゃんを守護りたいと思ってる」ことを視聴者に伝えることが重要だ。これは少し怪しい部分がある。劇中で陽太はひなちゃんを救うために走行中のトラックに飛び乗った。
…おかしくね?お前いつの間にそこまで熱心にひなちゃんのこと守護ろうって心境になってたんだよ。いや仮の家族みたいにはなってたけど走行中のバスに飛び移るほどか?いやまあアニメの演出上派手なシーンが必要だったということだろう。仕方がない。ここはぐっとこらえよう。
ひなちゃんとの別れは絶望的だったか
僕の答えはYESである。当然。
陽太、お前はどうだ?絶望的な気持ちになってたか?
まあここは流石に陽太もある程度は絶望してたと思う。知り合いが急に拉致されたらそりゃ驚くだろう。
ひなちゃんとの再会は感動的だったか
サナトリウムでの再会、かつての人格を失ったひなちゃんとの再会である。
ここで僕はこの作品に振り落とされた。ひなちゃんラヴだけではついていけなくなってしまったのだ。
本来であれば変わり果てたひなちゃんの姿に心を痛めるはずのシーンである。そこで僕は何も感じなかった…主に陽太のせいで…
以下その理由を説明していこう。
主人公に意志を感じない
陽太がサナトリウムにやってくる経緯が最悪なんですよね。ここで僕以外の多くの視聴者も振り落とされたと思う。
陽太、ひなちゃんが連れ去られたあと割とのんびり過ごしてるんですよね。ひなちゃんのいない日常を寂しく感じ、捜索は続けているものの一応普通に暮らしてる。
正直ちょっと不安になったよね。え、この主人公ひなちゃんのこともう見捨てたんか?って。まあストーリー上そんなことは絶対にあり得ないってのは分かってたけど正直この主人公がどうやって「うぉぉぉぉ!俺はひなを助ける!!!」ってなるのか読めなかった。で本編で陽太はどうやってその激アツ感情を抱くかというと、ストーリーを進めるために作られたようなモブキャラにきっかけを作ってもらうんよね。
おいィィィィィッ!一番の見せ場だろそこォォォォ!!!
キレすぎて激寒文体使わざるを得なくなった。
この主人公ださくないか?
ヒロインを取り戻すためのアツい感情をどうやって抱くかが主人公の見せ場でしょう、陽太さん。思い出せよ、ひなちゃんと過ごしたかけがえのない日々を……
無いんだよなそんなかけがえのない日々が。
無いんですよ、陽太とひなちゃんのかけがえのない日々ってやつが。アニメを振り返ってください。この二人、お互いをかけがえのない存在だと思うような掛け合いがほとんどないんですよね。近所の兄ちゃんとちびっ子程度の関係性のまま9話の別れシーンが来てしまった。ひなちゃんが連れ去られるシーンで陽太がいきなり「好きだ!」とか叫ぶから思わず「そうなん?」って声を出してしまった。
脚本が見えると一気に萎える
と、まあストーリー進行のための歯車みたいなキャラのおかげで陽太はひなちゃんのいるサナトリウムに行くわけなんですが、もうここで何となく感じてしまうんですよね。「あ、このキャラ脚本に従って動いてるだけだな。」と。いやアニメに脚本があるのは当然なんですけど、遊園地でミ〇ッキーマウスの着ぐるみからおっさんの腕が出てるのを見てしまったような。全部ではないけどはみ出て見えてるんですよ、麻枝准の腕が。
こうなるともう終わりですわ。脚本の存在を実感してしまうと、ひなちゃんが重い病を患っているのも、ひなちゃん頭からア〇ベチップ取り除いたら記憶がなくなるのも全部ただの「泣かせるための”設定”」としか見えなくなる。
そもそもサナトリウムに身分を偽って侵入する必要ないじゃないか。ただの民間の施設なんだから。「保護者です」とか「知合い」ですとかちゃんと説明して普通に面会せんかい。これは流石に視聴中にも少し気になった。あ、これ無理やり期限をつけてまた別れシーンを持ってくるな、と。
展開を読ませるな。素人の俺に。
べつにお別れシーンを毛嫌いしているわけではない。毎話お別れシーンがあっても自然な脚本なら文句は言わない。しかしこの作品の展開は残念ながら不自然である、この一言に尽きる。
僕だってこの長文批判noteを書くためにアニメ12話を観たわけじゃない。結構な暇を持て余しているがそこまで暇ではない。特別斜に構えて観ていたわけでもなく、ただぼーっと観て楽しむつもりであった。ただ、ぼーっと観ていても気になってしまうレベルの不自然さなのだ。
このシーンは特に気にならなかったと思う人もいるだろう。しかし話すと長くなるからここでは割愛するが、このアニメには「泣き」を誘うために不自然な展開が多々ある。1つ1つは細かい不自然さかもしれない。ほとんどの視聴者はその不自然さを意識することは無いかもしれない。しかしその細かい無意識の不自然の積み重ねが、視聴者にぼんやりと違和感を抱かせる。そしてその違和感は作品への感情移入を妨げる。
結局、感情移入ができなかったから僕は泣けなかったのかもしれない。
そもそも人格を失ったひなちゃんと再会する必要なくないか?
この作品の面白いところは「別れ」の対象が「ひなちゃん」そのものではなく「共に夏を過ごしたひなちゃんの記憶と人格」になっているところである。そして「共に夏を過ごしたひなちゃんの記憶と人格」とは結局再会できずに作品は終わるのである。
この作品、「出会い→別れ→再会」という構成に見せかけて実は「出会い→別れ」で終わりなのである。話数でいうと9話で終わり。それ以上は物語の続けようがない。がんばって延ばすとしてもひなちゃんの残したビデオレターを観る、くらいが限界じゃないでしょうか。だから本来は「別れ」がクライマックスになるはずなのである。二度と再会することのない永遠の別れ。ここで泣き演出泣き音楽が入るべきなんですよ。そして僕は号泣するはずなんです。
ところが本作では見ての通りあっさり「別れ」が終わる。そしてあるはずのない「再会」、9~12話がクライマックスになっているのである。
…どうしてひなちゃんのそっくりさんと会うのがクライマックスなんだ?目を覚ませ陽太、お前がサナトリウムから必死の思いで連れ帰ったのはひなちゃんのそっくりさんだ。ちゃんと見ろ陽太、髪型が違うだろ。ひなちゃんはロングヘアーだ。
ひなちゃんが失ったのが記憶だけなら良かった。家に連れ帰って「あの夏の思い出を取り戻そう!」といちから関係をやり直す感じでワンチャンあったかもしれない。しかしひなちゃんは人格をも失っているのだ。もはや別人と言っても過言ではない。最愛の人のそっくりさんを連れ戻して満足する。こんな悲しい話ないアルヨ…。
本作のテーマは「人間とは何か。」か?
ある人間がそれまでの人格・記憶を失ってもそれは同一人物であるといえるのか?そんな問いかけを9~12話ではしているのかもしれない。良い問いかけである。
ならもっと陽太を悩ませろよ、と私は言いたい。この非常に難しい問題を陽太はほとんど悩むことなく「あれはひなです。」と片付けてしまっているのだ。確かに11話中盤で一応悩んでるようなシーンはある。しかし周囲の人間の電話越しLINE越しのようわからん励ましで簡単に吹っ切れている。「あなたならきっとやれるわ!」とか「漢みせろし!」とかそんなよく分からん言葉でなぜ吹っ切れるんだ陽太。
こんな簡単に解決してしまうのだから「人間とは何か」がテーマではないのかもしれない…
視聴後の何とも言えない後味の悪さの原因
12話最終版、ひなちゃんが残したビデオレターで「世界が終わり滅びようともこの思い出だけは消えたりはせん。わしの永遠の宝物じゃ!」と言っている。
ひなちゃん自身にはもはや皆と過ごした夏の記憶はない。それどころか人格すら失ってしまったのだ。しかしひなちゃんとの「思い出」は皆の中に残り続ける。ひなちゃんがあの夏に感じた「思い」も消えることはない。
なんだかよくわからないが良い話である。
あれ、やっぱり良い話なのではないか?
…
いや、人格と記憶を失ったひなちゃんが画面に映っていなければ、である。
あの夏のひなちゃんの人格・記憶がなくなってもあの夏の思い出は皆の中に残っている。それで全て綺麗にまとまっているではないか。なぜひなちゃんのそっくりさんを残す必要がある?
この部分については自分でも詳しく言語化できていないのだが、端的に言うと「人格・記憶を失くしたひなちゃんとこれからどのように向き合って行くのか」が分からなかったのである。
陽太は人格と記憶を失くしたひなちゃんとどのように向き合っていく?
サナトリウムで陽太がひなちゃんと再会してから、陽太はひなちゃんに以前の人格・記憶を取り戻すように求めた。かつて好きだったゲーム、かつて仲の良かった人間たちを思い出させようとした。いや、無理だって言ってんじゃん。ひなちゃんは頭からア〇ベチップ抜き取られて人格と記憶ないって説明されてるじゃん。それでも無根拠に、しつこく記憶を取り戻すようにせまる主人公…
そのあとの展開は猿でもわかる。謎の力でひなちゃんが記憶を取り戻してお涙頂戴である。
(ところであのシーンひなちゃん記憶戻ってるんですかね?なんかあまりに唐突に陽太がいないといやー!とか言い出すから単にサナトリウムで懐いただけにも思える… )
とりあえず皆の居る家に帰るひなちゃん(偽)…。
そこで登場人物たちががひなちゃんに求めるのは「あの夏のひなちゃんの人格・記憶」なのである。映画の続きをみんなで撮る…人格と記憶を失った人にそんなことをやらせるな。24時間テレビでもそこまでしないだろ。
陽太は口を開けば「ひなは○○”だった”んだよ。」と過去の話ばかりである。知らんそんなこと。ひなちゃんはかつての人格・記憶がないんだから。
求めるものは「過去のひなちゃん」、救いを与えてくれたのも「過去のひなちゃん」
僕が視聴後感じたのは結局これなのである。過去を求め過去に救われる、何とも後ろ向きな話である。
もちろん作者はこのような意図で本作を描いたのではないだろう。しかし1視聴者の僕がそう受け取ってしまったのだから仕方がない。
まあいずれにせよ、ほとんどの視聴者が最後のシーン(ビデオレターを観るシーン)で感情移入したのは「過去のひなちゃん」に対してであろう。
そしてここまでの展開に漠然と不満を持っていた者も「さようなら、ひなちゃん…」という気持ちに少なからずなったはずである。そしてそこでモヤっとする。なぜならひなちゃんが普通に生きて画面に映っているから。人格記憶が無いとは言え、一応本人がそこにいるのに「さようなら」の気持ちを抱くのは何とも奇妙な状況である。
別れを告げた相手がなぜかそこにいる。別れが見せ場のアニメでこの演出はやはりキレが悪い。
不自然な展開で無理やり脚本家の描きたい結末に持って行き、その結末がなんともキレが悪い。それが本作の残念感の原因ではないだろうか。