身寄りの無い木内との文通が途絶え
内戦が終わった95年 まだまだ内戦の火種は消えては居なかった。 

ボスニア・ヘルツェゴビナへ木内を探しに行った 1998年 19歳から21歳は激動の歳だった。 

最初は青年海外協力隊として行くと聴かされて
心配はしていたが、昔とは比較にならない程
身体も鍛え上げられ 生命力に満ち溢れていた

3ヶ月置きだった手紙が 半年後には来なくなり 一年が経ち、終戦から3年が経った時

祖父が住むフィレンツェから、南へ南下し
ペスカーラと云う街から当時はイタリア国籍が有ればシベニクと云う港で降りる事が可能だった 

シベニクから更に南下し、当時62と云う国境の一部からボスニアに入る事が出来た。
そこから北上し 木内から最期に来た手紙の住所だったサラエボに向かった。 



道中で何を見たのか、何が有ったか 

筆舌に変え難く いわば何も無かったので在る。 


戦火は消える事無く、場所に因っては以前よりも状況は悪化し何も終わってさえ居なかった。  


木内から来た写真で見た滞在して居た宿や、住居は跡形も無く 難民キャンプの様だった 

支援をしているスタッフ達に写真を見せながら
この男を知らないか? と尋ねても皆、首を横に振るだけ そんな日が2〜3日続いた 

三年も経てば様々な物事は変わる 

そしてこうして 変わらない物事も在る 


内戦時から難民支援をして居た人達を探し
話しを聴くと 着いて来いと言われ 車で一時間程揺られた 緩やかな丘に連れて行かれた

サカワク? 確かそんな発音だった

銃を肩から下げた同い年くらいの2人に連れて行かれ 丘の中腹で強い夕陽を浴びた 

彼らから何かを聴く前に何故か涙が停めど無く溢れた

【 木内はここで死んだんだ 】


余りに強い夕陽で眼を開けられ無かった 

彼らは近寄って来て 僕を両サイドから包み込み泣き止むのを 黙って待ってくれた。 

少しだけ 土をポケットに入れ 
彼らに肩を支えられながら丘を降り
車に乗りまたサラエボに戻った 


夜は呑んだ事も無い様な妙な酒を飲み、お互い片言の英語やジェスチャーで大いに盛り上がった。 

彼らは難民支援では無く、元々兵士だったが
今は治安維持や、未だ有る砲撃やゲリラ部隊との衝突に対し自警団の様なモノを作り
難民支援を支えたり 故郷サラエボを守っていると云う話しだった 

木内が居た 村の様な場所が近くに有るが
今は何も無い と教えられた 

しかし木内の見た景色を見ておきたい 
何か痕跡が有れば と村に向かった。 

村には特に名前も無く 数十人が暮らして居た 
との事だが 崩れた家や、生活して居たであろう遠い記憶の断片が有った。 

そこで 同行してくれた四人でキャンプをし
木内の話しを聴いたり、写真を見せて貰ったりしながら 夜を明かした 



目が覚めたのは 4日後の夜明け前だった

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