『ブロークバック・マウンテン(2005)』感想

アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』は、惹かれ合う二人のカウボーイ達の20年間を描いたラブストーリーだ。原作にE・アニー・プルーの同名小説があるが、寡聞ながら筆者は未読である。

あらすじ
1963年の夏。ワイオミング州のブロークバック・マウンテンでイニス(ヒース・レジャー)は羊番の仕事を始める。たまたま一緒に組んで仕事をしていたジャック(ジェイク・ギレンホール)との間に友情が芽生えるが……。

https://www.cinematoday.jp/movie/T0004111




「男らしさ」の終焉



アメリカのなかでも保守的な傾向が強いとされる西部と緊密な関係にあるのが、カウボーイだ。そしてカウボーイは、まさに「男らしさ」を象徴するような存在である。男性同士の同質的集団内において、ホモソーシャル(homosocial)は避けられないだろう。ホモソーシャルは、女性蔑視・同性愛嫌悪によって成立する、同性間の結びつきを意味する。いわゆる「体育会系」のノリと言えばわかるだろうか。二人は、いわゆる「ゲイらしく」ない。つまり、定型には基づかず、一見して「ヘテロらしく」造形されている。

また、イニスとジャックは、それぞれ共通した二つの属性を備えている。言うまでもなく、カウボーイとゲイ(もしくは、バイセクシュアル)だ。だが、どちらも社会からの風当たりは良くない。カウボーイはその役目を終えようとしつつあるし、ゲイの居場所は決して多くない。『ブロークバック・マウンテン』は、ゲイの恋愛を扱った映画であると同時に、「男らしさ」の凋落を描いた映画でもある。

たとえばジャックは、いつも「良き父親」を演じることができないでいる。ジャックが、妻や子供達、義父母と食卓を囲むシーンがある。テーブルには七面鳥が置かれているから、感謝祭の日なのだろう。ジャックは、七面鳥を切り分ける役目を義父に奪われ、子供に対して父親らしく振る舞うこともできない。感謝祭で七面鳥を切り分けるのは、家長の役目とされているのだそうだ。夫婦関係のうまくいっていないイニスもまた、その役目を失ってしまっていた。


「ブロークバック・マウンテン」


ブロークバック・マウンテンは、どこにも居場所を見出せない二人の、唯一の癒しの場所だった。父親としても、ゲイとしても、どこに居れば良いかわからない。二人の愛の居場所は社会のなかにはなかった。彼らの愛は、ブロークバック・マウンテンにしかないのだ。ジャックの妻が言ったように、ブロークバック・マウンテンは、実在しない桃源郷のような存在だ。

『ブロークバック・マウンテン』の中国名は、「断背山」。イニスとジャックはブロークバック・マウンテンを降りることで二つに引き裂かれ、断絶される。だが、ふたたびブロークバック・マウンテンに戻ることで一つになれる。イニスがジャックの部屋を訪れた際、山で失くしたはずのシャツを見つける。イニスのシャツの上から、ジャックのシャツが重ねられていたのだ。筆者は終盤で二人が喧嘩する辺りから号泣だったのだが、このシーンで完全に涙腺をやられてしまった……。


異性愛化される同性愛


アン・リー監督は、本作を「ゲイ映画」であると語っている。だが同時に、普遍的なテーマを扱っている、とも。

これはゲイ映画です。その意見に対して反対はしません。ゲイ映画であるべきですし。しかし、この映画のテーマは普遍的なものなんです。この作品が、ただのゲイ映画だとも思っていません。……最終的にたどり着くのは愛なんです。……愛をさまざまな角度から見ると、それぞれ違った一面が見える。しかし、それも愛の一つの側面でしかない。この映画が見せようとしているのはまさにそれなんです。

https://www.cinematoday.jp/interview/A0000991


ここからは、多少『ブロークバック・マウンテン』から離れ、「ゲイ映画」に対する観客の受け止め方について書いてみたい。先に引用したアン・リー監督の発言については私もまったく首肯するのだが、「ゲイ映画」を擁護する際の文句はさまざまある。

時おり、「ゲイ映画」について首を捻らざるを得ない擁護を目にする。それはたとえば、「男同士の恋愛だって、私達(異性愛者)と同じ。異常なものじゃない」といったような擁護だ。この言説の前提には異性愛規範が横たわっている。これは所詮、「同じだから善い」という論理でしかない。擁護の論拠そのものが、マジョリティ側との同質性に基づいてしまっている。こういった言説は、「同性愛の異性愛化」とでも呼ぶべきものだ。
「同性愛の異性愛化」は、同性愛の「特異な」文化や慣習を無視し、無理やり社会のなかへ登録させ、均質化してしまう。マイノリティが虐げられる社会はやはり是正すべきであるが、その一方で、いわゆる「多様性」を盾にし、名無しのマイノリティに社会的命名(たとえば、「LGBTQ」や「発達障害」など)を行う動きについては、一長一短があると言える。
とはいえ、「ゲイ映画」に普遍的なテーマを求めることが悪いのではない。性別やセクシュアリティの差異を透明にし、マジョリティ側に取り込もうとする試みが間違っている。違いをもっと(差別的な意味でなく)面白がった方がいい。


「ゲイ映画」の動向


『ブロークバック・マウンテン』や、ジェームズ・アイヴォリー監督の『モーリス(1988)』では、時代性もあってゲイに対する差別が少なからず描かれる。しかし、近年の作品では必ずしもそうではないようだ。

たとえば、ルカ・グァダニーノ監督の『君の前で僕を呼んで(2017)』。これは1983年(原作小説では1987年)が舞台だが、ゲイ差別の描写はほとんど存在しない。グザヴィエ・ドラン監督の作品、『マイ・マザー(2009)』や『マティアス&マキシム(2019)』でも、ゲイであることは殊更特別扱いされない。偏見はあるにしても、ゲイの存在自体は、初めから皆の共通認識としてあるのだ。作り手や社会が変わっていくごとに、映画におけるゲイの立ち位置も変わっていく。


後記


じつは、先日『ブロークバック・マウンテン』を観直してみて、改めてその良さに気がついた。二度目にしてなぜかボロボロ泣いてしまい、自分の人生のなかで、確実に意味ある映画の一本として再認識された。初見時も充分満足いく作品だったのだが、再見時の方がよりいっそう自らに引き受けて観ることができたように思う。とりとめのない文章となったが、ともかく出力してみたかった。いずれ原作小説にも触れてみて、二人の物語を噛みしめてみたい。

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