喧嘩を終わらせる意思
クリスチャンだけど今喧嘩している人たちはホント今すぐやめて和解したほうがいい。相手が100%間違っているとしても喧嘩やめよう。喧嘩やめることが負けることではない。喧嘩やめないことでもっと大きな勝負に負けてしまう。祈ろう。その人に善で返そう。神様に任せよう。
喧嘩が生じてしまうこと自体はしょうがないと思う。みんな立場も考え方も違うし、間違う人もいる。喧嘩が持続するのを放置するのではなく、終結や和解をするための具体的な選択肢や段取りを考え、神様に祈り、周囲の助けを借り、できることを一つづつ実行すること。大事なのは終わりを目指すことかと。
喧嘩を継続すること自体には両者にも周囲にも神様にも益がない場合が多いと思います。相手はなぜ怒っているか理解し、自分がなぜ怒っているか理解させ、それはどうしたら解消するのか互いに対話しましょう。対話が無理なら第三者仲介か、落ち着くまで待つか、祈るか。終わらせることを実務と捉える。
ノンクリスチャンは見る。クリスチャンが起きた喧嘩を自分たちで終結に持っていけるかどうかを。イエスの説いた隣人愛に基づいた紛争解決の意思があり実行するのかどうかを。なるほど、こうやって喧嘩を和解に持っていくのがクリスチャンなのか、さすが口だけじゃないなと。御名が崇められますように。
喧嘩を止めるために対話や試行錯誤をする途上で神様が相手に間違いを悟らせるかもしれない。自分が間違いを悟るかもしれない。誤解が解けるかもしれない。感情的なわだかまりが解消するかもしれない。双方や周りは意見が違っても「そういう介入」のためになら一緒に祈ることができると、信じます。
行って二人だけのところで責める。もし聞き入れないならほかに一人か二人をいっしょに連れて行く。二人か三人の証言によって事実確認。それでも言うことを聞き入れないなら教会に告げる。教会の言うことも聞こうとしないなら異邦人か取税人のように扱う。マタイ18章イエス直伝の紛争解決ステップ。
クリスチャンが喧嘩を止めるときに必要なのはパタッと喧嘩に関連する全ての行動をストップすることじゃなくて、弟子としてイエスを立てるために、終結や和解のために積極的に具体的に理性的に行動をしていくことだと思う。立場の異なる熱心党員シモンと取税人マタイがイエスを師匠として立てたように。
クリスチャンが内輪の紛争解決に失敗したとき、ノンクリスチャンに侮辱されるのが主イエスの御名だろう。逆にノンクリスチャンが驚くような正義や柔和さを通して隣人愛を示すとき、崇められるのが主イエスの御名でもある。どの立場にいても、正しくても間違ってても、イエスの名を背負っているのだから。
赦す赦さないは自由です。その自由は神様が人間に与えたもので、人も神様も決して強制的に赦させることはできません。難しいからこそ祈る意味があり、聖書を読む意味があり、イエス様の教えに耳を傾ける意味があるのだと思います。祈りの中で赦せない気持ちも神様に吐き出し素直にぶつけましょう。
画像:Johann Heinrich Schönfeld - Versöhnung Jakobs mit Esau