方丈記に思いを巡らせる vol.1 導入編
鴨長明の方丈記の冒頭を日々心に留めて生きて行けば、道を踏み外しそうになってもきちんと戻って来れそうな気がする。
世の中や、社会、歴史、環境そして人の身体に至るまでこれほど端的に全てを言い表した言葉を私は知らない。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(鴨長明「方丈記」岩波文庫より抜粋)
中学生くらいで習い暗唱させられたが、当時は全く意味が分からず、社会等で辛さ、苦しさ、たまに嬉しさや満足の経験を経てやっと深い気付きを得たように思う。そうすると、どんな経験であれ、何かを理解するためのものであって、何一つムダではないのだと思う。
方丈記の冒頭になぞらえて小説家の堀田善衛氏は、過去の歴史がそのまま未来になるといい、何百年も前の戦国時代から、先の大戦での敗戦や現在の日本の未来が決まっていた、という。また、生物学者の福岡伸一氏においては、食べたものが消化されて栄養に変わるのではなく、分子レベルに分解され、それがそのまま身体のある部分と入れ替わり、人体は全て食べたものと入れ替わる、という。歴史、食べ物については、また後日綴りたいと思う。
要するに、鴨長明が言っていることは、過去の流れがそのまま現在に平行移動する、ということである。物事にはよっぽどの宿命的な要因がない限り、過去の行いの結果が現在に現れてくるものである。
例えば、身体のことでいうと、食べすぎたら太った、ゲームし過ぎたら目が悪くなった、働きすぎたら胃潰瘍になった、という感じに簡単に要因が予想できるものもある。そうすると、現れた結果をすぐに治療することに焦点をあてる癌や心臓発作等も、要因を探れば予防や発症後の改善に繋がることもあるように思う。そして、同じように生活していても、全く身体に出る異常が違う。それが、遺伝子等個人の身体の特性の違いによるものだろう。
私はダムの開発や管理をする職場で働いていた。(ここに記載することは、あくまでも一例であって全てではない。)そこでは、過去のデータから50年に一度とかの割合で発生する可能性のある洪水に耐えられるようダムを設計する。ダムは自然を大きく破壊するため、生態系の保全も実施する。ところが、いざダムができて運用してみたら、ダムで流れを一旦せき止めるため、河川の特質が大きく変わり、生態系が変わったり、河川が濁ったり、土砂がダムにたまって水を貯水できる容量が激減することもある。そうすると、今度は起きた結果に対する一時的な解決策を実施していくことになる。
また、昨今は過去に例のない洪水が頻発している。過去に例がないということは、もともとダムは昨今の洪水に耐えられるような計算はしていない。そのため、ダムが貯水できる容量をあっという間に越え、ダムの決壊を防ぐため、下流側河川に放流した結果、一気に氾濫したという話も聞く。また、ダムが効果を発揮できるのはダムを作った場所の上流の河川に雨が降ればダムの役目を果たすが、その例のない洪水がダムの下流で降った場合、下流側の河川があっという間に氾濫してしまう。
そこで、方丈記に当てはめて考えてみる。戦後日本は国土を大きく開発した。それがそのまま現在に流れてゆき、その結果が現れているということになる。恐らく日本だけの問題点でなく、世界の問題だろう。そうすると、現れた結果のみへの対処を行うことは、更なる開発を進めることになり、上塗りし続けた開発が未来に流れることになる。それが、今度はどういう結果になっていくか分からない。
そこで、一旦何もなかった過去の時点に視点を向けて一つ一つ探ってみると、根本的な要因が見つかるような気がする。
土木と自然(地球全て)のあり方は、私の一生の課題であるし、一生をかけても恐らく答えは出ないと思うが、未来に地球で生きてゆける環境を継いでゆくために考えていかねばばならないことだと思う。
それから、今日本や世界中で起きてる出来事はお金やモノ等、目に見える形あるものだけを求めてきた結果が現れているように思う。本当の豊かさとはなにか、過去を振り返り流れを変えていく必要があるように感じる。