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変わることを恐れない
小さいときは、色んなものが怖かった。変なおじさん、病院、死ぬこと、お化け、動物、きりがないくらい、怖いものでいっぱいだった。家に誰もいないときには、台所には、お岩さんがいて、皿を数えていると思っていて、鍵を母から預かって留守番するよう言われたときは、怖くて家に入れなかった。小学校の登下校中に必ず現れる、あっかんべおじさんを始めとする変なおじさんたちは気持ち悪かった。
ちょっと大きくなると、別の恐怖が芽生えた。それは、大人になることだった。大人になるってことは、こうであらねばならない、という世界に突入することだと思っていた。そして、自分の身体が変化してゆくことに恐怖を感じていた。なんだか、あっちこち痛くて、身体が変化するということも、しなくてはいけない義務を背負うようなもののように感じていた。だから、成長しないで、といつも念じていて、中学校に入ってもいつもクラスで身長が前から3番目くらいなのに満足していた。でも、小さいからって、成長しない訳ではなく、成長の速度が遅いだけで、結局、自分の成長を受け入れざるを得ない、諦めの時がやってきた。
西加奈子さんの『まく子』を読んで、その漠然とした不安の正体がよくやく理解できたし、そんなこと、かつてあったな、と反芻した。
本書は、小学校の高学年の男の子、慧(さとし)、が主人公であり、身体の変化や『変わってゆくこと』それ自体に恐怖を感じている。そして、自分は宇宙人であると名乗るコズエとの交流をとおして、人を愛すること、万物は変わり続けていていずれ消滅してゆくこと、全ては粒子の集まりで、みんな一つで繋がっているということを学んでゆくお話である。
本書を読んで、あの頃の私の恐怖は、明らかに女になってゆくことへの恐怖だったのだ、と気付いた。そして、女としての成長が終わった後には、そこで終了で、得体の知れないものが待っている気がしていた。そして、いつだって、身体の変化に心は付いていかない。病気も、老いるということも、きっと心が付いていかないから、皆、苦しむのだと思う。
だけれども、消滅することが決まっている私たちは、色々な変化を受け入れて、楽しんでいきていくしかないんだよ、そしたら、どんな生き方がいいか、実践してごらん、と後押ししてくれるのが、西加奈子さんの小説に共通するように私は感じる。
それにしても、私は西加奈子さんの書かれるものが好きだ。平凡な人たちに起こった出来事や奇跡を描くものが多いが、そうきたか、という不思議なものであっても、単純明解に淡々と描かれている。綺麗なものは綺麗に、汚いものは汚く描き、一般的な倫理観に反するものであっても、いいものに描こうとは決してしない。そのままなのだ。それをひっくるめて、肯定も否定もしない。物語本体に余韻が残っても、文章には余韻を残さない(『窓の魚』や『i』等の例外はある)のが、西加奈子さんの圧倒的な優しさのように感じる。
そして、西加奈子さんは必ず、この物語は、ここまでだ、後はきちんと自分の人生を生き抜けよ、といって、ぽーんと背を押して送り出してくれる。そこで、私は現実に一気に引き戻され、一歩踏み出すのである。
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