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平沢進『DUSToidよ歩行は快適か?』の新解釈~暗い問いかけ~

この記事では、平沢進の「DUSToidよ歩行は快適か?」という楽曲を、いちリスナーが、新しい視点で解釈していきます。色々な用語の説明をしていたら、少々長くなりましたが、読んでいただければ幸いです。


この記事を読む際の注意

①この考察は、GN(ファンクラブ)に加入していない者が書いた考察です。あまり詰められていない点も多いですが、ご了承下さい。

②このnoteは「解説」ではなく「解釈」で、考察の域を出ません。あくまで個人の解釈として受け取ってください。ただしリアクションは大歓迎でございます。一緒に考察を楽しみましょう。

③今回は「LEAK」を中心的に取り扱います。ネットで従来から言われているような解釈とは異なりますので、他楽曲との関連性が薄く、詰められていない箇所が多いです。ご了承ください。

④著作権の関係から、歌詞等は全て「引用」の形態を取らせていただきます。そのため、歌詞全文は検索等を行ってください。


従来の解釈を振り返る

先行の解釈として2つのものを取り上げます。
これと、

これです。

どちらの解釈も、楽曲の「はい」と言う部分以降に「覚醒」や「目覚め」といった展開を読み込んでいます。楽曲のタイトルが「歩行は快適か?」という問いかけの文であることからも、それに呼応する展開が続くと読み込むのは、自然な感じがしますね。


昨今の平沢進のスタンス

ここからは、少し歌詞の解釈から脱線をします。
平沢進の「世界」に対する昨今のスタンスを、ここで確認しておきます。これが、この曲(とこの曲の使用)に関する考察へとつながる土台を用意してくれるからです。この記事を書く動機も、この点にあります。

これは私の見解ですが、平沢進はアルバム『BEACON』にて自らを取り巻く世界観への疑いに決着をつけてしまったように思えました。これまでの「なにかこの世界はおかしいのでは?」と問い続けてきたスタンスではなく、「この世界はこうである。だからこうせよ。」という形に変容した。その画期になるのが『BEACON』と考えていました。
詳しくはこちらのnoteに書いたので、ご一読いただけると幸いです。

そしてこのスタンスは、次のようなところにも表れています。

「誰一人落とすな」は、アルバム『BLUE LIMBO』の「Ride the Blue Limbo」という楽曲に登場する歌詞です。他方「гипноза(Gipnoza)」では「奇怪の結界のFreeze 気づくだけの 晴れるフォギー瞬間のクラッシュ 置き去るだけ」と歌われています。

2000年代初期から、2010年を過ぎて、平沢は「この世は狂気だ。誰一人落とすな。」から「この世の狂気に気づかぬ者は、置き去る。」へと変容しています。

これを考えるとき、頭にチラつくのは平沢進といわゆる「陰謀論」との関係性です。私は平沢進が世に言われるような「陰謀論者」ではないと考えていますが、少なくとも陰謀論的な発想やフレーズ、世界観から創作の鍵を得ているのは認めざるを得ないでしょう。

陰謀論はやや宗教と似たところがあるように思えます。すなわち「信じる者は救われる」というフレーズに見られる、条件付き救済です。宗教も陰謀論者も、目の前の人間を、自らの信じる世界観に共鳴する人/しない人と二分します。「共鳴する人」と分類された人にだけ、その人の信じる救済が与えられるというロジックです。

宗教や陰謀論に限らず、世の中の社会制度は「条件付き救済」で回っています。生活保護を受け取れるのは、「受給対象者」になるという条件を満たした者のみです。義務教育にも暗に条件が課されています。陰謀論や宗教は、これをかなり露骨な形で(言い方を換えれば、法に基づかない形で)行っているのが、社会制度とは異なる点でしょう。

これに対して「誰一人落とすな」というは「博愛主義」的と言えるでしょう。「来るもの拒まず」というのは素晴らしいですが、現実的には難しいことが多いのも確かです。例えば、本来「公園」は「誰でも使える」「誰でも遊べる」ようなところです。条件はありません。

「誰一人落とすな」はスローガンとしては素晴らしいものですが、実際にやろうとすると、おそらく必ずどこかで無理が生じる。現実的かつ妥当な方法には、やはり「条件付き救済」が採用されるのが世の常でしょう。平沢のスタンス変更も、ある意味で現実的なもの、リアリティを増したものと言えます。しかし、いくらか冷たいですよね。「気づいた人だけは救いますよ。気づかない人は、気づかないままです。残念。」という風に。
(ちなみに、こういうのを真面目に考えようとした人には、哲学者サルトルのいとこであるアルベルト=シュバイツァーがいます。)

もう一度、流れを整理します。
『BLUE LIMBO』
「誰一人落とすな」
=世界観の疑い+全救済
『гипноза』
「気づくだけ、置き去るだけ」
世界観の提示+条件付き救済
『BEACON』
「TIMELINEの終わり」
世界観の決着

このように、平沢作品の世界観は「万人に開かれたもの」から「特定支持者層に閉じたもの」に変質してしまったのでしょうか。
私は、そう思いません。

そのために、DUS Toidの新たな解釈に乗り出すのです。


タイトルから色々と考えてみる

ところで、やはりタイトルの独特さは重要です。
「DUST Toid よ歩行は快適か?」
これを、いくつかのパーツに分けます。

DUST Toidについては、先行する解釈で解説されている通りです。
"-oid"は「~のようなもの」という意味を持っており、Mongoloid(モンゴロイド)やHumanoid(ヒューマノイド)といった単語に用いられています。これを転用すれば、Dustoidは「ゴミのようなもの」と読めます。平沢曰く「類塵猿」という訳が相当するらしいです。

「歩行」に着目してみましょう。
フランスの文化人類学者であるアンドレ=ルロワ=グーランは、『身振りと言葉』の中で、二足歩行に言及しています。
(ここからはやや難しい内容を、きわめて簡単に書き直しており、参照文献の内容の精度は落ちます。ご了承ください。)

ルロワ=グーランは、「歩行」を軸に、現在のわれわれへの発展段階を論じます。(二足)歩行により、人間の祖先である生き物の頭蓋骨は、縦方向に変形します。四足歩行の動物は、頭部先端の「鼻」と「前足」を使って食べ物を探す必要があります。二足歩行は「前足」を自由にし、「鼻」を使う頻度を少なくしました。その結果、頭部は横に長いのではなく、縦に長いものになります。

ここで重要なのは、「前足=手の解放」「頭蓋の容積拡大」です。これにより、人間の祖先は手を使って様々なことをやりだします。そのうち最も重要なものに「道具の創作」があります。物質的な道具だけでなく、記号的な道具として「文字」がこの後から生まれてくることになります。

現代社会は、石器時代の「石器」と「シンボル=記号=後の文字」の延長線上にあると考えれます。二足歩行は、太古の昔から現在に至る歴史の中で、大きな分岐点だったと言えます。


歩行の両義性

平沢自身も「二足歩行」という表現は好んで用います。

たいていの場合、平沢は「二足歩行」を「人間」という意味で使っているようです。たまに「平沢自身」を表していることもあります。

二足歩行が、現在の人間に至る分岐点だったこと。
現在の社会、人間特有の思考様式、これら「今」に繋がるすべては「二足歩行」から生じています。そこで平沢は問うのです。
「歩行は快適か?」と。
ここまでくれば、「歩行」の中に、様々なエッセンスが入っているように見えてきます。人間による素晴らしい発明も、素晴らしい文化も、素晴らしい建築も、「二足歩行」に由来します。反対に、戦争も、悪知恵も、同調圧力も、核兵器も、「二足歩行」に由来します。
ゆえに、「歩行」には良いニュアンスも、悪いニュアンスも、まとめて含まれていると言えるでしょう。


「暗い問いかけ」として読み直す

「DUS Toidよ歩行は快適か?」は、元は改訂P-model『音楽産業廃棄物 P-model or die』の最後の曲でした。

既存の価値体系や流通システムから離脱し、自らの“インフォメイション・スフィア”を築いていくことを宣言している。音楽的にも旧世界では廃棄物となったP-MODELの回収・再生がテーマ。

https://susumuhirasawa.com/discography/item-81/

「旧世界」=既存の価値体系・流通システム
「新世界」=インフォメイション・スフィア

という図式です。

MP3配信を世に先駆けて行ったことで注目を浴びたのは、平沢進です。
このアルバムも、MP3配信を主軸として展開されました。

それまで「音楽を聴く」のには、あらゆる制度・システムに依存する必要がありました。音楽を聴くためには、コンサートに行ったり、CDを買ったりする必要があります。コンサートチケット・CDは作曲者の手を離れた途端に、いくつもの会社や法律のチェックを経由して、ようやく視聴者のもとに届けられるという仕組みでした。

インターネットが一般化した瞬間(つまり2000年前後)から、こうした面倒くさく、搾取されやすい仕組みから脱却し、だれもが「自分で」音楽を手に入れるようになったのです。好きな時に、好きなように、自らの良識に照らして、音楽を自由に使う。音楽を作るのも自由、音楽を聴くのも自由、ライブを見るのも自由、ただし良識とマナーに自主的に則って。そうした世の中こそがインフォメイション・スフィアの世界観・価値体系・システムでしょう。

私たちは何かをしようと思うとき、必ず「制度」「商品」を頼ろうとします。病気にかかれば「病院=医療制度」に頼ります。何かを学ぼうと思うと、「学校=教育制度」「習い事=商品」に頼ります(習い事でも同じことです)。しかし、私たちは本来、「自分で」何かを成す力があるはずです。別に教えてもらわなくても、自力で学ぶ方法は現代では揃っています。それなのに、商品を使って、制度を通して学ばないと「正しく学んだ」気がしないから不安になるのです。自分の方法で体調を整えていても、「正しく癒している」気がしないから、不安になるのです。

こうしたことを真剣に考えた人には、哲学者イヴァン=イリイチがいます。『コンヴィヴィアリティのための道具』という本では、こうした話が展開されています。

話を平沢進・P-modelに戻します。
要は「新世界」と「旧世界」のどちらを選ぶ?
「P-model」or「die」のどっち?
という問いかけをしていた
、という話です。

そういうコンセプトで作られたアルバムの大トリが「DUS Toidよ歩行は快適か?」です。ここに「新世界or旧世界のどっち?」「P-modelに乗るか?死ぬか?どっちだ?」という暗い問いかけとして解釈する理由があります。


歌詞の個別解釈

この曲を「暗い問いかけ」として読み直してみましょう。

Bメロの解釈

「科学の笑顔」というフレーズは、間違いなく詐欺的な「ニセモノの科学」が微笑みかけてくる現代と読み直せます。平沢が普通に使われるときの「科学」にポジティブなものを読み込むはずがない、という前提に立った解釈なのですが。
「シナプスに火を焚き」というフレーズは、以前に「白虎野」の解釈で登場した「火」と同じでしょう。要は「思考」のことです。
「地下鉄のゲートへ挑む 空想の地を走らせ」というフレーズには、やや長い解説が必要でしょう。

我々が依存している制度・商品には「交通」も含まれています。鉄道は、実際の距離感を人間から奪います。代わりに時間を生み出します。その時間は、いったい何に使われているでしょうか?(このあたりはご想像にお任せします)
地下鉄に乗るときに、必ず目に入るものがあります。「路線図」です。路線図は、鉄道会社の都合によって描かれるものなので、実際の距離や駅の配置とは大きく異なる図です。路線図に従いながら走る地下鉄は「空想の地」を走っていると言えます。

このあたりの歌詞は、次のように解釈できます。

>ニセモノの科学が、あなたの思考に強制をしている。ほら、今日もどこかに行くために、効率的に何かをこなすために、自分の歩行から得られる距離感を犠牲にして、「時間」を生み出している。お前はいまどこを走っているかわかっているか?ほら、思考は強制されている。

このあとに来る歌詞
「おー DUSTOID 歩行は今快適か?」
これ以降も、常にこの問いかけは続きます。

「はい」前の解釈

「群衆には見えない 宇宙のUtilityよ」というフレーズも、ちょっと良く見てみましょう。
Utilityは「効用」と訳します。経済学で用いられる言葉で、ざっくり言えば「消費量を増やすことで得られる幸福度合い」のことです。ベーグルを1口食べる(消費する)と、5ポイントの幸福が得られるとしましょう。2口食べても5ポイントの幸福が得られるならば、「効用は減らない」と言えます。逆に、3口以上食べると得られる幸福ポイントが減っていくのだとしたら「効用は減り続ける」と言います。

平沢はここで「宇宙のUtility」を唱えるわけです。2回も。
あらゆるものからの恩恵を受けながら生活をしていますが、その根源にあるのは「太陽」や「地球」にあります。石油や石炭、あらゆるエネルギーの発端をたどると、必ず宇宙に到達します。我々は、宇宙から提供されるものを消費し、その消費量をどんどんと増やし、幸福度合いを高めています。

宇宙からの効用を増やすこと自体は、悪いことではありません。いつの時代だってそういうことをしてきています。人間以外の生物もそうしています。ただし、「一般的には意識されない(=群衆には見えない)」宇宙の効用というのが、あるのかもしれません。いずれにせよ、この手の効用は、自分たちの手からは離れてしまっています。(そういえば平沢は「Energy Works」というプロジェクトをやっていましたね)

Cメロの解釈

「秘密裏に繋がる ニューロンの歌で目覚め」というフレーズ
インターネットっぽさを感じるフレーズだと考えます。
シナプス・火・ニューロンと、「思考」に関するフレーズが登場しますが、『音楽産業廃棄物』の「MP3配信」という背景を踏まえましょう。「ニューロン」は個人の脳に限定されたものではなく、各人の思考が新たなネットワークによって繋がる(インターネットでつながる)ことを表現したものと言えます。まだこの頃(2000年前後)は、あまり監視の目も多くない、自由なインターネット空間というイメージが持てた時代なのでしょうか。

反面では、このように解釈もできます。
もはやインターネットの仕組み、ネットワークの仕組みは、大半の人間が知らないものとなりました。もう今ではほとんど見られませんが、「手紙を出す」とき、その手紙がどこから、どこを経由して、どこへ送られるのかを、人は知ることができます。直接だれかの家に手紙を届ければ、さらに話は早いです。しかし、インターネットのメールは、どのように送られ、何を経由して、どのように届くのか、知っている人は少ないでしょう。

「秘密裏」という言葉をどのように取るか。これによって、上記の2パターンの解釈ができます。それを踏まえて、このあたりの歌詞を解釈します。

>①各人がそれぞれの良識に照らしてインターネットを使うインフォメイション・スフィアが、もうそこにある。どのような形になるかわからないが、創造の鍵がそこには忍ばせてある。新しい可能性は開けている。

>②お前を取り巻くネットワークは、もはやどのような仕組みで動いているのかを理解できないだろう。秘密裏に、勝手に、お前は繋がされている。

またしてもこのあとに
「おーDUSTOID 歩行は今快適か?」という問いかけがきます。

歌詞解釈の結論

この曲は、「覚醒」「目覚め」という方向に向かっていく展開を持った曲ではないでしょう。たしかに歌詞は一見そう思えてきます。しかし私には、「新世界と旧世界」と並列して見せ、「さぁお前はどっちだ?」と暗く問いかけ続けているように思えます。

結論として、この歌をこういう風に解釈しました。

よくわからないアドレナリンで駆り立てられる群衆の一員として生きるか?
ニセモノの科学・制度・商品に依存し、思考を奪われ続けるのか?
まだ宇宙の本当の効用に気づかないか?
あなたの代わって代弁しよう、「はい、まだ気づかない」。
手元には新世界があるぞ?(あるいは勝手に繋がされ続けるか?)
どうだ類塵猿、「歩行」は快適か?
お前はどちらの道に歩みを進めるんだ?
P-model or die?


HYBRID PHONON 2566の再考

Hybrid Phonon 2566の東京公演
「DUSToidよ歩行は快適か」はセトリの1番目でした。

暗い問いかけから始まるんです。
だから「叫ばない」んです。

BSPでは、HP2566の「照明」に言及されました。

照明の話を簡単に振り返ると、
「同じ挙動・動作でも、文脈が変われば、全く正反対の意味になる」
というやつです。
これは非常に大事な話です。少し詳しく考えます。

「挙動α」は、世界観Aであろうと、世界観Bであろうと、見た目は同じです。何が違うのか。そこから人が受け取る印象・意味合いです。

よくある話を例にします。「ピースサイン」という「挙動」は、日本という文化圏では写真を撮る際のポーズという意味ですが、別の文化圏に行くと無礼な意味合いになる…といったようなことと同じです。

この「挙動―世界観」という関係性を、次のように読み替えてみます。
「挙動」=外見からわかるもの=平沢進の作品
「世界観」=受け取り手の印象を変化させるもの=オーディエンスの認識

平沢の作品αは、オーディエンスAとオーディエンスBで、そこから受け取る印象・意味合いが異なります。これは極めて当たり前のことです。

ただ、この当たり前のことが重要です。
重要なのは、「作品α」は何ら変化しない、ということです。
変化したのはオーディエンスの認識です。オーディエンスの変容は、作者に影響を与えます。そのことによる変化はあり得ます。しかし、「暗い問いかけ」をしてくる楽曲そのものが変わったわけでは無い。すなわち、「問いかけ」自体をやめていないわけです。

HYBRID PHONONは、平沢ソロと(核)P-modelの「ごった煮」であり、「なんでもアリ」のライブ形式という感じがします。その中に、Gipnozaという「置き去り宣言」と、Timelineの終わりという「決着」、そしてDUSToidという「問いかけ」が並置されています。いずれも捨ててはいない。オーディエンスの捉え方次第で、平沢はそこにいるし、そこにいない。ということでしょうか。

会然Trek(エシカル・トレック)というタイトルは、"Ethical Trek"すなわち「倫理的な旅」と呼んでもよいそうです(平沢がTwitterで言ってた)。
「倫理」というのは「これこれは善いことである/悪いことである」というルールのことです。「善/悪」の判断基準、すなわち倫理は人に何かを強制させるときの土台となります。「これは善だから、しなさい」「これは悪だから、するな」という風に。「倫理的な旅」と呼ぶと、ややこのライブから「ルール」のような硬さを覚えます。

「倫理」というやや硬いライブの中に、『BLUE LIMBO』楽曲が多く採用されました。他方、HYBRID PHONONという「ごった煮」ライブでは「置き去り宣言」も「終焉宣言」も「暗い問いかけ」も採用されました。
ライブの意図と採用される楽曲との関係をみるにつけ、異質な組み合わせをすることで(なんでこのライブでこの曲?という配列をすることで)、固定的な作品解釈を脱臼させているように思えます。

読み取りすぎですかね。
長々とありがとうございました。

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