おかえりなさい、石井琢朗。
2012年10月8日。
広島東洋カープの石井琢朗が、現役を引退した。
最後の舞台は、横浜スタジアム。
ベイスターズ時代はチームに栄光をもたらした。
カープに意識してからは若いチームに「勝つ」意識を植え付け、その後の黄金時代の礎となった。
ハマスタで行われた引退試合は
レフトもライトも石井琢朗。
カープファンも、
ベイスターズファンも、石井琢朗。
みんなが石井琢朗の応援歌を唄っていた。
あの引退試合の光景は、10年経った今も深く心に刻まれている。
打てて、守れて、走れる。
私が野球を見始めたのは、もう25年も前になる。
地元球団、横浜ベイスターズが強いらしい。
小学生だった私にとって、野球を知ったきっかけはその程度だ。
ミーハーな父の影響を受けて、テレビ神奈川の野球中継を見るようになり、
快進撃を続けるベイスターズを応援するようになる。
「もののけが憑いている。」指揮官がそう評した神懸り的な進撃を続けるチームの中でも、一際輝きを放つ選手がいた。
右へ左へ痛烈なヒットを打ったかと思えば、次の瞬間には二塁へスチール。守れば三遊間深い位置から矢のような送球。
目をギラギラと輝かせ、野生動物の如くボールに飛びつく姿勢。
ユニフォームの着こなし、佇まい。
一発で私は石井琢朗という存在に魅せられた。
「負けず嫌い」がユニフォームを着ている。
ある時、こんな試合があった。
その打者を抑えれば終わり、という試合。マウンドには絶対的守護神がいた。
打ち取った打球が石井琢朗の前に転がり、スタジアムにいたファンは誰もがゲームセットだと思った。
勿論、私もだ。しかし、彼はエラーを犯してしまう。
そのエラーをきっかけに、同点に追いつかれ、9回裏。
2アウトながらヒットが出ればサヨナラという場面で、石井琢朗。
見事サヨナラヒットを放ち、ナインにもみくちゃにされるも、スタンドから見る限り彼に笑顔がない。
彼がヒーローインタビューで話した「すいません」という言葉は、私の記憶に今でも残っている。
試合の責任を全て背負い込んでしまうんじゃないかというくらい、責任感が強く、負けず嫌い。
「負けず嫌い」が人の形を成したんじゃないか。
私が少年時代の石井琢朗は、まさにヒーローだった。
チームが低迷する中でも、先頭に立ち続けた。
98年にベイスターズが日本一になってから、多くの選手がチームを離れていった
絶対的守護神が抜けた。
扇の要が抜けた。
四番打者が抜けた。
気付けば、98年日本一のメンバーで残る主要な内野手は石井琢朗だけとなっていた。
選手の退団と比例するように、ベイスターズは低迷していった。
日本一から僅か4年後の2002年には最下位転落。
閑古鳥のなくハマスタを見て、私が酷く落ち込んだのは言うまでもない。
それでも、石井琢朗はバットを振り続けた。
2002年には1500本安打、2006年には2000本安打を達成。
チームがどん底に喘ぐ中で、気を吐き続けた。
それでも、チームは勝てない。
そして、石井琢朗にも、世代交代の波が襲ってくる。
2007年頃から、途中交代であったり、スタメンを外れることが多くなった。
藤田一也や石川雄洋、野中信吾といった若手選手が将来性も見込んで試合に出ることが多くなった。
代打で出てくる石井琢朗は、何とも惜しい。粘りがないように思えた。
ひたすら打てる球が来るまで粘る。粘って粘ってパチっとライト前にヒットを打つような。
もっと全身からギラギラしたオーラが込み上げてくるような選手だったのに。
子どもながらに、これが「衰え」なのかと、納得してしまった。
98年には左腕エースとして活躍した野村弘樹や、
絶対的守護神であった佐々木主浩の引退試合を見て、
石井琢朗も数年後、ベイスターズで終わりがくるのかなぁなんて、当時の私は考えていた。
2008年、私はいてもたっていられなくなって、バイト代を掻き集めてベイスターズの春季キャンプを見に沖縄へ行った。
全体練習後も黙々とバットを振る石井琢朗。
個別トレーニングで淡々とノックを処理する石井琢朗。
身体の所々にテーピングの痕が見えたが、若い者には負けないという意志を強く感じた。
それでも、チームの低迷に歯止めが掛からず、若返りを進める球団方針も相まって、石井琢朗の出番は少なくなっていった。
2008年、ベイスターズから引退勧告を受けた石井琢朗はこれを拒否。ベイスターズを退団する。
2008年当時の私は、ベイスターズ好きが高じてスタジアムでアルバイトをするようになっていた。
主な職場は「横浜スタジアムライトスタンド」
そこで席案内や、観客の誘導を行っていたのだが
そこでも、彼に纏わる忘れられない光景を目の当たりにする。
その年のシーズン最終戦。
退団が決まっていた石井琢朗と、同じく功労者である鈴木尚典の横浜スタジアムラストゲーム。
阪神との試合が終わり、私は試合後の勤務体勢を取る。
グラウンドに背を向けて、観客席側を向く。
主に帰路に着く観客をスタジアムの出口まで案内するのが仕事だ。
トランシーバーを片手に、出口側の警備員と連絡を取り、時には人の流れを止め、観客が滞留するのを防ぐ。
普段であれば30分もあれば外野席から観客が全員捌けるのである。
ただ、今日はいつもと勝手が違った。
お客さんが帰らない。
鈴木尚典と、石井琢朗を待っている。
目の前にいた女性は目に涙を溜めながら、
「タクロー!!!」
と叫んでいる。
石井琢朗が退団する経緯が、決してチーム、石井琢朗双方にとって幸せな経緯ではないことを、みんな知っていた。
球団からはセレモニーの類はなく、淡々とシーズン最終戦のセレモニーだけが終わった。
ベンチに戻る選手たち。
外野席から、
「タカノリ!!」
「タクロー!!!」
一際大きな、叫び声にも、悲鳴にも似た歓声がグラウンドに轟いた。
その時、運営本部から一本の無線が私の耳に入る。
「石井さんと鈴木さん、ライトスタンドに行くから、お客さん転落しないように気をつけて」
鈴木尚典と石井琢朗が、ライトスタンドまで駆け寄ってきた。
この試合一番の盛り上がりを見せるライトスタンド。
そして、石井琢朗が絶叫する。
「ありがとうございました!!!」
ファンと一緒にグラウンドを見るわけにはいかない。
目の前の女性も、その後ろの席に座る高齢の男性も、泣いていた。
私も泣いていた。
あの時ほど、グラウンドを振り返りたい瞬間はなかった。
石井琢朗は、新天地を広島に求めた。
同年オフに石井琢朗は広島東洋カープに移籍する。
他球団のユニフォームを着た石井琢朗は、びっくりするくらいユニフォームが似合っていた。
まるで身体の底からふつふつと湧き上がるような赤に身を包んだ石井琢朗は、ベイスターズに牙を向く。
通算100号は同じ釜の飯を食った三浦大輔から。
幾度となく、ハマスタで痛い目にあった。
カープで過ごした4年間が、本当に中身の濃い四年間だったのだと思い知らされたのは、
前田健太が、「石井さんをCSに連れて行きたい」とヒーローインタビューで話したことからも読み取れた。
そして、2012年10月8日を迎えた。
それから10年。
石井琢朗はカープで四年、ヤクルトで2年、巨人で2年。
いつか帰ってきてくれないだろうか。
もう横浜のユニフォームを着ることはないんだろうか。
何度も何度も何度も他球団のユニフォームを着ている石井琢朗を見ては、そんなことを思う毎日。
そして、2021年11月13日
石井琢朗がベイスターズの選手として横浜スタジアムを離れて、実に4781日。
石井琢朗は帰ってきた。
お帰りなさい。石井琢朗。