もしかしたら一生忘れられない笑顔
「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」という『ジャネーの法則』というものがある。これによると人生の体感時間は、20歳前後で折り返し、酒が飲める頃には人生の体感時間の半分は使い切ってしまうことになる。
大人になると味覚が変わるという。毒と感じるべき苦味を許容していってしまうようだ。確かに、小さい頃は避けていた春菊のおいしさが分かってきたり、ハラワタが取り除かれたサンマの塩焼きにどこか物足りなさを感じるように、いつしかなっていた。
モスキート音という高い音も年を取るにつれて聴き辛くなるらしい。実際にまだ体感はしていないが、夏の鬱陶しい蚊を目で追うことが毎年難しくなってきている方が今は問題だ。今年も何匹の蚊をお目こぼししてやったかわからない。
人間は産まれた瞬間から既に死に向かっていくのだから、成長の山頂を越えれば感覚は少しずつ確実に鈍っていく。色々な経験によって、少しずつ、過度な防御のレベルを落として効率化していくともいえるのかもしれない。
更に命を個ではなく種で捉えると、種の効率化のために次世代が成長していくにつれ、旧世代はバトンタッチに舵を切る。個の生存に必要な防御のレベルを割り込んでしまうこともいとわずに、種の保存のために死の坂を下っていくのだろう。
この歌を聞いた最初の印象は、「許し」だった。
”二人”でしか共有していない関係、それが故に少しだけ許されている(許している)、束の間の邂逅を愛おしむ。日常と非日常のバランスが取れる範囲で楽しむのは誰にだって許されてもいいんじゃないの、というような。
発表直後何度か聞いたが(当時は職場に不倫関係のカップルがいたので、生々しさも感じながら。。。)以降数年聞いていなかった。
サブスクのランダム再生に任せていたら、最近久しぶりにこの曲を聴くことになり、改めて歌詞も見ながら曲を聞いてみた。
”もしかしたら一生忘れられない笑顔僕に向けて”
ラスサビの直前の部分。ここが妙に気になり、何度か前後リピートしたり全体の歌詞を見たり、自分の弦に何が触れたかを探した。
歌の導入部分、ギターとボーカルのみで展開されるパート
”物語のわき役になってだいぶ月日がたつ”
この直後からハイハットとスネアが入り曲が本題に入っていく、大事な導入部分。
歌詞全体の読み取り方では、いろんな”二人”が想像できるが、この導入部分は一人。その一人が脇役となっている。
幼児万能感、という言葉があるが、多くの人間は恐らく成長の坂を上っている頃には自分は人生の主人公と、疑わずに思っているのではないか。そうでないにしろ、その個人の人生において上り坂と下り坂では景色は異なる。
この歌の目線の人物は確実に人生の頂上は越えたところにいる。
その”一人”がもう”一人”との関係において”一生忘れられない笑顔僕に向けて”と感じている。”もしかしたら”。
この”もしかしたら”は、一生忘れられないと言い切ることが出来ないこと、この先もしかしたら忘れてしまうのでは、という予感だ。
束の間の二人の時間、日常を抜け出してまで創り出した特別な時間、その中でふと見せる大事な人の美しい表情に対しても、日常に戻れば忘れてしまうのかもしれないという諦観。
もしかしたら忘れられない笑顔”足りえた”のでは、を表す、仮定の”もしかしたら”とも、僕には受け取れた。人生の上り坂の『鋭敏な感覚』で見たなら、きっと忘れることの出来なかったであろう表情。
ただ、既に二人は人生の下りにいて、一瞬の熱もどこかにいってしまうのだろう。主役であった時にすり減っていない二人であれば、冷めなかったであろう熱であると、そう感じているのだ。
全体のテーマは、許されざる二人の関係、非日常をうたっている。
ただ僕には、どこかで使い切ったり失くしてしまった”心の受容体”のようなものを、束の間でも取り戻す瞬間が、下りになっている人生においても存在するという意味を感じた。
この歌の二人が、ただでさえ短くなった体感時間における二時間を大事にするように、何かが自分の胸を打つ瞬間を逃さず、確実に心に転写していきたいと思う。