ARE YOU (1)
絵について何か述べるときに、ただ「いい絵」というだけでは、何も説明していないのとおなじだ。評論ならば、どこがイイのかを論理的に説明する必要がある。ただ、読者のハートを的確に、ピシっと射抜くような、そんな充実感をよぶような評論でなくても、素人じみたやりかたでいいのではないか。感受性の鈍い、独創性の無い私は、果たされた務めとか、そういうことにこだわらずに、「イイ」という範囲で、自分のしたいように話をすすめることにしたい。評論は長く、人生は短い。それが世の道理である。私は平常の使い慣れた言葉で、必要な問題についてのみ関心を払おう。一介の評論家たるもの、事務的な常套句よりも、自然にあたえられた言葉にしたがわなければならない。そもそも無味乾燥な文章語では読者の心は買収し難い。たとえ内臓から出るような名言にしても、おべっかを使う著述に読者は小首をかしげるものなのだ。したがって、狸小路エリの絵は、いい絵である。フルストップ。これ以上なにを言う必要があろう。あまりにも単純な見方に、読者は拍子抜けするかもしれない。とりとめのない言葉だと言うかもしれない。しかし、私はこの言葉が好きだ。表現を最小限に切り詰めた「イイ」は、いかめしい文句よりも言葉の重みは軽くなるが、私はこの飾りの無い言葉がすきなのである。
狸小路エリの絵は、職業や年齢、そして性別や国籍を問わず、おなじように「あぁ、いいな」と感じてしまう絵だ。「いいね」と問うと、相手もうなずく。この時の沈黙が私はすきだ。そのあとですぐに、ニッコリ笑う。そんな同じ方向を見つめる人と気持ちが一つになるような絵が「いい絵」ではないか。「私にも昔は、そんないい人がいたな」というような発言は「早く忘れたほうがいいですよ」の横やりでさえぎられるべきだが、「いい人」とは、いてもいなくてもいい人だと、どこかの政治家が言っていた。もし、これが「いい食べ物」ならば、美味しいだけではなく、体が必要とする栄養素をバランスよく含んでいるなどの意味を表すのだろう。しかし「いい絵」とは、美しい絵画を通しての感傷的な生の充足という意味合いが強く、いい絵という言葉の根拠に、たとえば生活の規律を厳しくするような、ある意味では人間を甘やかさない姿勢があるのかどうかは曖昧なわけだ。
ところで、エリの展覧会をしたのは、もう五年以上も前だが、今でもその感動は心の芯となり残っている。「ゆったりと時が流れる北の大地、田園と野菜畑の広がるこの地に、たたずむ家、あるいは一本の木。そうした風景を心に描きながら絵筆を握り続けた画家、それが狸小路エリです」で始まる文章は、私が展覧会のチラシのために書いたものだ。それは次のように続く。「エリの親は二人とも画家で、彼女も自然に絵を描くことに親しんでいました。そして画家になりたいという素振りを見せ始めます。彼女は予備校へは通わず、上京した後は、美術館を見て回り、独りで研究し、美大に合格します」このように振り返るとエリは画家になることをある程度は運命付けられていた気がする。運命に忠実に従ったエリは、画家として名前が売れ、下卑た話だが金回りもよくなった。しかし、ゆっくり漫遊のつもりで旅に出た先でスランプに陥る。1年近くも絵を描けない時期が続いたという。絵を描けないというのは、頭と心に特別な作用を与えるような風景に出会えない、自分の絵に満足できないということなのだろう。画家にとつて、これ以上の不安はない。絵を描くということは幸福と不安が同居するものだが、画家は社会に養われるので、消極的で、受動的な面がある。このことを物語るには、画家の心理を裏づけるような、よもやま話が便利だ。それは小説的な内容だけに、小説風に説明しようと思う。
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