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238.天理教教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」 力を入れたらじゃないのはなんで?


はじめに


天理教教祖伝逸話篇には「力比べ」のお話が沢山出てきます。

「力比べ」のよく言われる悟り方としては、
「こちらが神様に対して力を入れれば(祈る、尽くる、奉仕する等)神様もそれに応えて、人間が力を入れた以上の御守護にして返して下さる。」
という悟り方です。

このように普通は「力を入れること」に注目しますが、
「天理教教祖伝逸話篇174そっちで力をゆるめたら」では、
「力を入れること」ではなく、
「力を緩めること」がタイトルになっていることに興味深さを感じました。


普通に考えると
「神様が力を入れる→病気が治る」
とするのが一般的だと思いますが、ここを掘り下げてみると、
「神様が力を緩める→病気が治る」
という考え方も面白いと思ったので、今回はその事について書いていきたいと思います。


ちなみに「天理教教祖伝逸話篇174そっちで力をゆるめたら」は以下のお話です。

天理教教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」
もと大和小泉藩で、お馬廻り役をしていて、柔術や剣道にも相当腕に覚えのあった仲野秀信が、ある日おぢばへ帰って、教祖にお目にかかった時のこと、教祖は、
「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われていなさるが、一つこの手を放してごらん。」
と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手に込めて、気合い諸共ヤッと引き離そうとした。しかし、御高齢の教祖は、神色自若としてビクともなさらない。
まだ壮年の仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何とかして引き離そうと、力の限り何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。
それのみか、驚いたことには、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握りしめられて、遂には手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに耐え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います。」と言って、お放し下さるよう願った。すると、教祖は、
「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力をいれるのやで。この事は、今だけのことやない程に。」
と、仰せになって、静かに手をお放しになった。



力を入れると痛い


力比べの逸話読むと、教祖が力を入れられると手が痛いので、力を緩めて頂くという場面が多いです。

これを単に、教祖が人間離れした力強さを見せて、神様である事の証拠を見せられた。
という解釈でも良いのですが、
個人的には、「神様が力を入れたら痛い」ということが気になりました。

おふでさきに

なにゝても やまいいたみハ さらになし
神のせきこみ てびきなるぞや 2号-7

このようにあります。

病気や怪我は神様の急き込みであり手引きである。
つまり、
「神様の手引きは痛い(苦しい)んです」

この「神様の手引きが痛い」ということが、上記の逸話篇の情景と重なります。

「仲野が教祖の手を引き離そうといくら引っ張っても離れられず、むしろ教祖の手首を掴む力がどんどん強くなり、その痛さに耐えられなくなる。」

「人間の心が陽気ぐらし(神様)から離れている時に、病気や問題となって現れてくる。」

このように、僕には上記の逸話篇174の内容が、
「人間の心使いと神様の手引きの関係」のメタファー(暗喩)
になっているようにも感じました。

このように、「神様の手引き痛い」ということから
「神様が力を入れる」の解釈を考えると
「神様が力を入れる=御守護を下さる」
ではなく、
「神様が力を入れる=人間の心を変えようとして下さっている」
という悟り方の方が、むしろしっくりくるように思います。

人間の心だけは、神様の意志で変える事ができません。

ですから、人間の心を変えるためには、神様であっても力を入れる必要があるのではないかと考えてみると、

○神様が力を入れる
目的:人間の心を変えるため
現象:身上・事情

○神様が力を緩める
理由:人間の心が変わったため(神様から離れていかなくなった)
現象:身上・事情が治まる

こんな解釈も出来ると思います。

まさに逸話篇174で、教祖が手を握る力を緩めて、仲野がの腕が痛くなくなったことと重なります。



これで何が起こっても嬉しくなる


この考え方の何が良いのかと言うと、
「神様が力を入れる=御守護を下さる」
と考えた場合、
身上・事情の状態を
「御守護が無い状態=悪」
このように、望ましくないことだと考えていまいがちです。

しかし
「神様が力を入れる=人間の心を変えようとして下さっている」
このように考えれば、
「身上・事情こそ御守護を頂いている状態である。」
というように捉えることが出来るかと思います。

因縁も同じです。

「納消すべき悪因縁も御守護なのか?」
という疑問が湧く人もいるかもしれません。

しかし、そもそも悪因縁が現れてくる目的は、陽気ぐらしがから離れてしまった心を引き寄せるためです。


現れた身上事情に付随する神様の思召が例え「残念」「立腹」であったとしても、それは、人間を陽気ぐらしへと引き寄せる為だという事実に変わりはありません。


身上事情は全て、人間の心を変え、運命を変えるために現れてきます。


人間の心が変わった時に
神様が引き寄せる力がゆるめて
よしよしと人間の頭を撫でて下さる。


こう思えば、
病気になるのも嬉しいし
病気が治るのも嬉しい
問題が起こるのも嬉しいし
問題が解決するのも嬉しい

そんな陽気尽くめの心になれるんじゃ無いかなと思いました。


まとめ


○神様が力を入れる=人間の心を変えようとして下さっている

○神様が力を緩める=身上事情が治る

こう考えれば「この世は極楽」ということの一端が見えた気がしました。
(気がしただけです)


おまけタイム


どーも!夏の入り口に冷蔵庫が壊れてピンチな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先週の水曜日あたりから、冷蔵庫が全く冷えなくなってしまいました。

そこで、冷蔵庫の電源を抜き、2日間放置して霜取りをしましたが、完全には元に戻りませんんでした。


これはもう、僕の渾身の親父ギャグで冷蔵庫を冷やすしかありません。


ちょうど暑い季節なので、このnoteを読んでいる皆さんにも、僕の親父ギャグによる冷気をお裾分けしたいと思います。


いきます…




プリンがぷりんぷりん




冷えが足りない方は、声に出して読む事をオススメします。



本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!