205.オンライン参拝の是非
はじめに
このコロナ禍において、人が集まり共に祈ることに制限がかけられ、従来のような形で祈ることが出来なくなりました。
そういった中、宗派を問わずオンライン参拝を導入する教会が続々と出てきました。
実は、天理教の教会では、コロナ禍の前からオンライン参拝を実施している教会が一部あったそうで、その教会では、普段参拝することが難しい海外の教会に向けて、大教会の月次祭をオンラインで中継していたそうです。
こういった状況の中
「なぜ天理教教会本部は月次祭をオンライン中継しないのか?」
といった声をチラホラ耳にします。
僕自身、あまり深くこの問題について考えてはいなかったのですが、先日ある方とオンライン参拝について話す機会があり、色々と腑に落ちる見解が得られたので、今日はこのことについて書いていきたいと思います。
月次祭の意義
天理教には毎日朝と夕方につとめる「おつとめ」と、月に一回つとめる「月次祭」がありますが、おそらく「朝夕のおつとめ」はオンライン参拝を議論対象ではないと思いますので、「月次祭」を対象に考えていきたいと思います。
まず、オンライン参拝を語る上で外すことができないのは
「月次祭はなんのために行っているのか」
「月次祭が出来る条件はなんなのか」
このことについてしっかり認識しておかなくてはいけません。
かぐらづとめ
本部月次祭でつとめられる「かぐらづとめ」は人間創造の御守護をこの世に体現したおつとめです。
また、「かぐらづとめ」は「ようきづとめ」「たすけづとめ」とも言い、この「おつとめ」を行うことによって、世界中の人を助けることができる「究極の祭事」と言えると思います。
(詳しい説明は検索して下さい………と言いたいところだったのですが、検索してみると、あまり詳しい説明が無いので、だれかブログなりYouTubeなりで作ってくれないかなー(自分で書くきはない))
※見つけたら後日リンクを貼ります
※追記
こちらに「かぐらづとめの説明動画」がありますので、こちらをご覧下さい。
このかぐらづとめは、明治22年4月24日のおさしづにて、現在の山名大教会が「かぐら面を使わせて下さい」とお願いしたところ、「面はぢば限り」とお許しになりませんでした。
つまり、
かぐら面を付けて行う「かぐらづとめ」は「ぢば」のみでしかつとめることが出来ません。
そして、
各教会でつとめられる月次祭は「ぢばの理」を受けてつとめられるものです。
ですから、
教会には神の出張り場所として、親神様と教祖の目標(めどう)が祀られています。
月次祭を教会でしか行うことはできないのは、ぢばの理を受けてつとめるためです。
以上のことから分かるように、
天理教の祭事は「場所」がもの凄く大切になってきます。
場所に重要な意味があるのは、他宗教と比較してみても、天理教の特有の性質ではないかと思います。
「丹精」として実施するのはあり
天理教では「場所」にとても大切な意味が込められていますので、
「直接かぐらづとめを参拝すること」と、
「『場所』が欠けているオンライン参拝」を
一括りにすることは出来ません。
「場所」が欠けていることを例えると
家まで水を引く際、いくつものパイプを繋ぎ合わせて浄水場と家を繋ぐが、その際、どこか一箇所でもパイプが外れていた場合は家に水は届かない。
このことから「人」「時間」「場所」など、一つでも欠けていては理が頂けないのではないかと悟らせていただきます。
しかしこれは、
各教会がやっているオンライン参拝を否定するものではありません。
各教会で信者さんに喜んで頂くために、オンライン参拝を行うのは、「丹精」という意味で有りだと思います。
言い換えれば、オンライン参拝は信者さんに喜んで頂くため、
「丹精に特化したコンテンツ」
ではないかと思います。
以上の理由から、「かぐらづとめ」をつとめる本来の意味を考えると、わざわざ本部が月次祭のオンライン参拝を行う必要はないのではないかと僕は考えます。
これは、現時点での僕の考えですので、何か別の考えがあれば是非教えて下さい。
おまけタイム
どーも!おっさんだと勘違いれている人が結構いる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
最近僕のことを、「おっさんだと思っていた」と言う声がちらほら耳に入ってきます。
なのでここで高らかに宣言させていただきますが、
僕はまだ20代です!!
先日10月18日に誕生日を迎え29歳になりましたが、まだギリギリ20代です!
今日言いたいことはそれだけです。
おまけタイムで書くネタが無いとかではなく、僕が20代であるということを印象付けるためです。
本当なんです。
更新頻度減ったくせに書くこと無いとかそんなわけありません。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!