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229.愛町分教会初代会長 関根豊松氏に学ぶ お金の扱い方・使い方


はじめに

天理教関連本でお供えについては書かれているものと比べて、お金自体の扱い方について書かれているものは中々見かけません。

 そんな中、愛町分教会初代会長関根豊松氏(以下関根氏)の伝記「因縁に勝つ」の中の、愛光布教所長大野佐七氏(以下大野氏)が関根氏から伺ったお話の一つに、お金の扱い方・使い方について書いてあるものがあったので、その一部を紹介したいと思います。


お金をいたわる心


会長様のおそばへ行かせてもらうようになってから、私は会長様が机の前に正座してお札のシワを一生懸命伸ばしたり薄紙を切っては糊付けして貼っていらっしゃるのをしばしば見た。
 ある時はそれを火にあてて乾かし、貼紙のはみ出た分を鋏(はさみ)をていねいに切り取っておられるのを見た。まことに入念に、心から愛情を注ぎ込むような、手厚い介抱をしておられるお姿であった。
日々ご用の多い会長様がなぜこんな煩わしいことをされるのか、私は納得できなかった。もしも私の手元に破れ掛けのお札があったとしても、汚れた札があったら、買物の折にそれから支払いに使えばいいはずである。
 流通紙幣のことで永く手元に置くわけのものではなし、そんな手間をかけることはあるまいと思った。
 そこである時伺ってみた。
「会長様、お忙しいご身分なのになぜそんな面倒なことをなさるのですか。汚れたお札がありましたら、それからお使いになられたらいかがですか」
そうしたら会長様は
「大野よ、お前は何と情けない男なんだ。信仰心があるのかないのか。一体どの耳に教祖のお話を聞いているんだ」
とたしなめるようにして、次のお話を聞かせて下さったのである。
いま私が手入れしているこのお札は直き人の手に渡すものだ。だからこそ、なお今のうちに充分傷の手当てをしてあげねば可哀想だ。このお札のお陰で重宝な品物を買えもするし、汽車にも乗せてもらえる。この上ない重要な役目を持って、人から人へと走り回ってくれて、疲れ切ったお札もある。傷ついて半分破れているお札もある。心ない人なんか財布にも入れないで、裸のまんまポケットや袂の中へ突っ込んで、鷲掴みに放り出す人もある。なぜそんな手荒いことをするのだろう。財布がないなら紙袋の中でもいいから入れてやってくれればいいのに…。ほんとに可哀想だよ。
 私は一粒のお米にも頭を下げるけど、お金にも頭を下げるだけの恩を知ってるよ。世間ではお金に恵まれている人、不自由している人、様々あるだろうけど、お金というものは欲しいからといって集まってくれるものじゃない。財産のできるできないはお金のかき集め方にあるんじゃないよ。お金の使い方によって決まるんだよ。生かす使い方をするか。泣かせる使い方をするかで決まるのものなんだ。世の中のためになる使い方、人の喜ぶような使い方をするんだよ。家内を泣かせたり不足に思わせたり、親を悲しませるような使い方をしたら、お金はオカネエというて神様が置いて下さらない。与えて下さらないよ。お金自体もようく知っているよ。可愛がってくれる所へ飛んできたがるものなんだ。だからお金を無精に扱う人は、お金に嫌われていいといってるのと同じなんだよ。それから私は小銭を大事にするね。何十万というお金を出す時には、惜し気もなく出すけれど、百円札や千円札を使う時はようく思案して使うようにしているよ。大金はこわくないけれど小銭は恐い。なぜというたら、まとまった金はきっと生きたところへ使われる。世のため、人のために生かされてゆくものだけれど、小銭は我が身勝手ごとに使いやすい。だから恐い。気をつけることだね。」
聞かせて頂いて、初めて成る程と合点したものであった。


分かり易く丁寧に説明されてるので、僕の考えを書く必要は全く無い気もしますが、それではただのコピペブログになってしまうので、思うことを書いていきます。


「お金」と「すたりもの(廃りもの)」


これを読んだときに思い浮かんだ教祖のお言葉があります。
稿本天理教教祖伝逸話篇112「一に愛想」に出てくる。
「すたりもの身につくで、いやしいのと違う」
この言葉です。

この「すたりもの」はお金にも当てはまるのではないかと思いました。

「すたりもの」は「廃るもの」ということで、
「古くなり使われなくなっていくもの」
という意味です。
そういう意味で言えば、お金は使われなくなっていくものではないので「すたりもの」ではないかもしれません。

しかし、
「お金」と「すたりもの」共通点は色々あって
1.いずれ手元から無くなる(故に粗末に扱ってしまう)
2.使い切りのもの(故に粗末に扱ってしまう)
3.粗末に扱っても困らない(価値は変わらない)

以上のような共通点が挙げられます。

また、こういった理由から大野氏は

「会長様、お忙しいご身分なのになぜそんな面倒なことをなさるのですか。汚れたお札がありましたら、それからお使いになられたらいかがですか」

と尋ねたのではないかと想像します。

この言葉に対して関根氏は

「大野よ、お前は何と情けない男なんだ。信仰心があるのかないのか。一体どの耳に教祖のお話を聞いているんだ」

と大野氏をたしなめ、お金をなぜ大切に扱うのかという説明が続きます。

この関根氏の言葉を箇条書きでまとめると

前半
・お札は重要な役目を果たしているのに、粗末に扱われて可哀想。

後半
・財産の出来る出来ないは、お金の集め方でなく使い方で決まる。
・生かす使い方、世の中のためになる使い方、人の喜ぶ使い方をする。
・家内を泣かせる・不足に思わせる、親を泣かせる使い方をしてはいけない。
・大金は恐くないが、小銭は恐い。
・大金はきっと生きたところへ使われる。
・小銭は我が身勝手に使いやすいので、よく考えて使っている。
このようになるかと思います。

前半と後半に分けた理由は
前半:お金自体の扱い方
後半:お金の使い方

と別々のことを説明しているからです。


前半「お金自体の扱い方」


前半の「お金自体の扱い方」は「物を大切にする」という「かしもの・かりもの」の境地の話をしていると思います。

「いま私が手入れしているこのお札はじき人の手に渡すものだ。だからこそ、なお今のうちに充分傷の手当てをしてあげねば可哀想だ…(後略)」

今でこそ、「お金を大切に扱う人の所にお金が集まる」ということはよく見聞きしますが、関根氏の活躍された大正から昭和にかけての時代は、あの有名な「お札を燃やす成金の風刺画」が出てきたような時代ですので、お金の使いは今より乱暴だったと思います。

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大野氏も

「流通紙幣のことで永く手元に置くわけのものではなし、そんな手間をかけることはあるまい」

と思ったように。
お金を大切に扱うという感覚は、あまりなかったのかもしれません。

皆が大切にしているものや大事なものを、丁寧に扱うことは誰でもできることです。

そうではなく、
普通は丁寧に扱わないもの(粗末に扱ってしまうもの)を丁寧に扱うことに、「かしものかりもの」の教えと、根底に流れる「信仰」を感じました。

また、関根氏はお札を「可哀想」「人から人へと走り回ってくれて」「疲れ切った」と、まるで人間のように擬人化して接しています。
身の回りの物を擬人化して表現することで「物を大切にする心」が分かり易く伝わると思いました。



後半「お金の使い方」は「心の使い方」


そして後半の「お金の使い方」は「心の使い方」に繋がると思います。

1「財産の出来る出来ないはお金の使い方で決まる」
 「人の喜ぶ使い方をする、生かした使い方をする」

これは「より喜びが多くなる使い方」だと解釈しています。
単純に考えれば、
・自分の為に使っても喜ぶのは自分だけ。
・人の為に使えば、相手も喜びその姿を見て自分も嬉しくなる。

・相手は何人居ても良い。
この3つが肝になります。

それでは、
「自分の為にお金を使ってはいけないのか?」
と言われればそうではありません。

例えば、料理人の人が「良い包丁が欲しい」と思い、自分の為に包丁を買ったとします。
それは結果的に、その包丁を使った料理で多くの人を喜ばせているので、人の為にお金を使うことになると思います。

一概に決めつけることはできませんが、
「喜びは質より量が大事」
このように考えられる気もします。


2「大金は恐くないけど小銭は恐い」
 「小銭は我が身勝手ごとに使いやすい

大金を使う時と違い、小銭を使う時に何も意識していないことは、確かにあるかもと思いました。

小銭を使う時に
「ちょっとくらい使っても良いか」
と言う気持ちが湧けばまだましです。
(本当は使わない方が良いと思ってているから、湧く気持ちなので)

そもそも、何も思わない人が大半だと思います。

つまり、
心に積もる「ほこり」と同じで、小銭を使うのは「気付かない内に」ということがポイントになります。

ほこりが気付かない内に積もるのと同じように、小銭は気付かない内に我が身勝手な使い方になってしまうと思います。

そうならないように、小銭の使い方は心に留めておかなくてはいけない事だと思いました。



「かしものかりもの」との関連で思った事


今回の記事を書きながら、
「失ったら困るもの」と「失っても困らないもの」を一つにまとめて考えがちだけど、別々に分けて考えた方が「かしものかりもの」の理解を深められるかもしれない。
ということを思ったので、ちょっとその事について書いていきたいと思います。

「かしものかりもの」についてのお話といえば、
「息ができる」
「普通に歩ける」
「ご飯が食べられる」
「朝目が覚める」
こういった、
普段当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではない。
このような文脈で聞くことが多いと思います。

こういった「命や健康」といった「自分の身体」に関することは、失った途端不自由を感じやすいので聞く人の腑に落ちやすいです。

しかし、
こういった「かしものかりもの」の話しの影に隠れてしまっている「かしものかりもの」の話しがあると思いました。

先程挙げた「息が出来る」「普通に歩ける」といった「かしものかりもの」の話しは、
all or nothing(オールオアナッシング)
つまり、
「有ると自由」だけど「無いと不自由」みたいな、
「失ってから大切さに気付く前に、今の内に有り難さに気付こうね」
といった、よく聞く「かしものかりもの」の話しです。

でも、神様から貸して頂いてるものは、無くしたら困るものだけではなく、この世の全ての物が神様から貸して頂いているものです。

ですから、
「失っても特に困らないもの(替えが効くもの)」
これも神様から貸して頂いているものです。

前置きが長くなりましたが、
関根氏の「お金を丁寧に扱う」という話しから、この「失っても特に困らないもの」をどれだけ大切に出来るかが、結構大切なことなんじゃないかと思いました。

どんなものを大切にすべきかと言うと、「お金」と「すたりもの」の共通点としてあげた
1.いずれ手元から無くなる(故に粗末に扱ってしまう)
2.使い切りのもの(故に粗末に扱ってしまう)
3.粗末に扱っても困らない(価値は変わらない)

この3つのいずれかが当て嵌まるものが、まずあるかと思います。

以上のことを踏まえて、この章の冒頭にも述べたように
「失ったら困るもの」と「失っても困らないもの」を一つにまとめて考えがちだけど、別々に分けて考えた方が「かしものかりもの」の理解を深められるかもしれない。
と思いました。

補足

「失っても特に困らないもの」って失っても困らないので、どうしても気付けないことって結構あるんじゃないかと思いました。
なので、否定派が多い「貧に落ちきる」というひながたも、「かしものかりもの」の感覚を養うためには全然アリだと改めて思った次第です。



おまけタイム


どーも!最近noteが長文になりがちな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

最近このnoteを、天理教の教理を解説しているnoteだと勘違いしている方がおられるので、ちょっと説明します。

このnoteは、天理教の教えや先人の言葉から、
僕が考えたことを・思ったことを書いていくnoteです。

ですので、
長くなることもあれば、
分かり難い時もあるし、
内容が間違っている時もあります。

だってその時点の僕の考えを書いただけなので( ˘ω˘ )

正確さを目的にしたnoteではないことを了承下さい。

今回の記事もそこそこエッジが効いてるので、一年後には意見が変わっているかもしれません(〃ω〃)テヘッ
そんな感じで読んでもらえたら嬉しいです。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





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ほこりまみれの信仰者こーせー / 天理教note
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