239.「をしい」が「はらだち」や「こうまん」へ変化する
はじめに
西山輝夫氏の「見て共に楽しむ」に掲載している「貧に落ち切ることの再認識」という文章の中で、面白い例え話がありました。
それを読んで、
ほこりの心使いである「をしい」が、
「はらだち」や「こうまん」に変わっていくのかも?
と思いましたので、その事について書きたいと思います。
「をしい」→「こうまん」
これは一休禅師の話しであったと記憶しますが、若い弟子をつれて雲水の旅をしている時、水かさの増した川を前にして、うら若い女性が途方にくれているのに出会いました。
その時一休は何のためらいもなく彼女を背負って向こう岸へ渡してやりました。
別れた後、弟子が、仏に仕える身が戒律に反することをしてもよいのかと、非難めいたことを口にしますと、一休はジロリとにらんで
「お前はまだ女を抱いているのか」と言いました。
自分は難儀している女を助けただけで、渡してしまえばもうすんだと、心に何も残っていない。
それなのにお前は、現実に女に触れてもいないのに、またすでに女の姿は消えているのに、心の中でまだ抱いているではないか。それを執着といい、迷いというのだ。
なまぐさ坊主とはお前のことだ。まだまだ修行が足らん。喝! というわけです。
※漢字を現代使いに変換しています。
これは仏教のお話ですが、天理教の信仰者である僕達にもグサグサ刺さるお話なんです。
一体どこがグサグサ刺さるのかと言うと、
西山氏はこのお話について、まずこのように述べています。
たとえば、私はあの時大事にしていた着物を皆売ってお供えさせて頂いたというようなことを、十年経っても二十年経っても心に思い、口に言う人があるとします。
この人は、形の上では物を放し、良い事をしたわけですが、心ではまだ持ち続けているのと同じです。これでは執着を去ったことにはなりません。
僕はこれを読んで「心の執着」とは、「をしい」の心使いだなと思い、
「ということは『をしい』の心使いから『こうまん』の心使いが生まれるんだ」
と思いました。
「をしい」とは、「出し惜しみ」「骨惜しみ」と言うように、実際に出す前の段階で発生するほこりの心使いです。
しかし、
実際に物を手放した後でも、
心では物を放していない状態が続くと、
それは、
「こうまん」の心使いに変化していくと思います。
例えば、
「俺は昔、こんな凄いことをしたんだぞ」
というように、
いつまで経っても過去の善行に執着すること、
これは完全に「こうまん」だと思います。
「こうまん」は傲り高ぶった心使いと言われますが、過去の栄光をいつまでもひけらかす人は、
「過去の栄光を使ってマウントを取りたい」
という心が見て取れるので、バチバチに「こうまん」のほこりの積んでそうです。
(もちろんそうじゃないパターンもあると思います)
先人の言葉に、
「かけた恩はすぐ忘れて、受けた恩は一生忘れるな」
という言葉がありますが、かけた恩をいつまでも言い続ける人ってダサいですし、見てて嫌ですよね。
そう思うと、
ほこりの心使いをしている人は人間的にも魅力的じゃない
という事がよく分かるので、気をつけたいと思いました。
「をしい」→「はらだち」
西山氏は更にこんな事も述べられてます。
私たちは人の姿を見て、自分の立場からいろいろ批評する癖があります。
そこで、あの人は天理教の先生のくせにバーに出入りしたり、ゴルフに凝ったり、贅沢な真似をしている。
全くけしからんではないかと目くじらを立てる人があるとします。
この人はまじめで質素で熱心な人です。
この非難は一見もっとものようですが、広い視野から見ますと、一休の若い弟子と同じことで、このマジメ人間は、自分が楽しみをしないで、おまけに心に腹立ちのほこりをつむわけですから、二重の損失を招いていることになります。
まじめにやっているのにどうも御守護が頂けないという場合があれば、一度こんなことがないか振り返ってみるのも勉強の1つかと思います。
これを読むと、執着心(をしい)は「はらだち」の心使いにも繋がるらしくで、
考えてみても、確かに深く頷ける内容です。
そう考えると、
僕には「をしい」という心使いの怖ろしさが、段々形を帯びて見えてきました。
「をしい」のほこりは、
物を出す or 行動に移す前に積むほこりです。
「私はそんな出し惜しみするようなほこりは積まないぞ」
「なんでも喜んでさせてもらうぞ」
このように思って実行に移しても、
心に執着があった場合、
「なんであの人はちゃんとやらないんだろう」
と「はらだち」のほこりや
「私は昔これだけの事をやったんだぞ」
と「こうまん」のほこりを積もらせてしまう危険性があるのです。
簡単にまとめるとこんな感じです。
「をしい」→「はらだち」や「こうまん」に変化(より凶悪に進化)する。
「出し惜しみ(物への執着)」→「こうまん」
結果:過去の栄光でマウントを取る。
「骨惜しみ(行動への執着)」→「はらだち」
結果:真面目にやってない人への不満が溜まる。
ここに、目に見える世界に囚われてしまう危うさを感じました。
西山氏も、目に見える世界で判断してしまう危うさを、分かり易く説かれています。
衣食住の豊かさを求めず最低の生活に甘んじてたすけにつとめることは一つの善であります。
かといって、おれはこれだけ頑張っているのだという思いで通っているとしたら、それは必ずしも執着を去ったことを意味しないのです。
あるいは逆に、物に恵まれ、高級車に乗っているから、その人は執着心が強いともいいきれないということです。
外見で人をはかってはならないのです。
「外見で人をはかってはならない」なんて、言われなくても当たり前、常識だと思われるかもしれません。
しかし、頭では分かっていても、人は目に見える世界で人を判断してしまいまうことが多いですよね。
その原因の一つが、「執着心」なんだと思います。
まとめ
目に見える世界では、
物を手放し、
行動に移し、
「をしい」を放しているつもりでも、
心の世界では、
物や、
行動に
執着し続けている。
その執着が、
「はらだち」や
「こうまん」の心使いに繋がり、
その影響で対人関係をも歪めてしまう。
そのことを思えば、
目に見えない心の世界が、改めて大事なんだと思った次第です。
おまけタイム
どーも!なんだかんだオリンピックはいいなーと思う男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
オリンピック良いです。
色々ありましたけど、選手達の姿は色々あった感を吹き飛ばしてくれる感動があります。
僕は今回のオリンピックは、今までのオリンピックでは得られなかった感動を感じています。
どこに感じるかと言うと、
他国の選手の表情にも、凄く感動させられる自分がいるんです。
選手達が、今までの苦労、苦渋、それを乗り越えて会場に立っているせいか、
その表情に凄く哀愁を感じてしまいます。
ここまで来たプロセスと言うか、ストーリーが全然今までと違うので、良いオリンピックになったらいいなーと思ってます。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!