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222.天理教の未来予想図/「シャア専用ザクだけで戦況は決まらない」

はじめに


昨年末くらいから、天理教がこの先どうなるのか悶々と考えていたのですが、ようやく頭の中でまとまってきました。

ということで今回は
「現在の天理教」
「次の天理教」
「次の次の天理教」
の3段階に分けて、天理教がどういう方向に進んでいくのか、僕の未来予想図を書いていきたいと思います。


フェーズ1.現在の天理教 「天理教を表に出さないお助け」


まず、現在の天理教はどの段階(フェーズ)にいるのかというと、
「天理教という名前を出さずに、信仰者として仕事に取り組んだり、地域活動に取り組んだり、SNSで発信する段階」
こういう段階にあると思います。

宗教というだけで取り合ってもらえない、いかがわしいと思われる。
これはまだまだ社会に根強く残っている感覚です。

職場での勧誘禁止であったり、職務上宗教の話しが出来ない場合もあります。

このように、宗教と聞くだけで壁を作られてしまう状況が続いてきたので、天理教の名前は出さずに信仰者として職務に取り組み、相手から尋ねられたら
「実は天理教を信仰しています」
と初めて信仰を明らかにする。
「少し人とは違うと思ったら、天理教を信仰されてたんですね」
というような反応が返ってきて、そこから天理教の話が始まる。

以上のような一連の流れは、様々なところで聞く
「理想パターンのテンプレ」
として定着しており、誰でも再現性が期待出来るので、信仰者の大部分はこの「天理教を表に出さないお助け」の段階にいると思います。


フェーズ2.次の天理教 「天理教×○○」


「天理教を表に出さないお助け」の次の段階は、
「天理教の教会(信仰者)が農業や福祉等の事業や地域活動を展開していく段階」
今まさに、意識のある教会や信仰者が現在進行形で進んでいる段階がここです。

昔から幼稚園や福祉施設を経営してる教会はありましたが、今はその流れが加速していて、
「天理教×農業」
「天理教×子供食堂」
「天理教×福祉」
「天理教×アート」等

以上のように天理教ということを隠さずに、事業や地域活動を展開して地域に貢献していくことに、色々な教会が取り組んでいます。

先日YouTubeで上げられていた1月の青年会例会でも、「教会×○○」で夢を語っている登壇者が居ました。

こうやって天理教を全面的に出せるようになってきたのも、多様性を認める方向に世界が進んでおり、差別問題が取り沙汰されるのと一緒で、

「信仰している宗教でその人を判断するのはダサい」

という感覚が若者を中心に芽生えているからだと思います。
(とはいえ、日本ではLGBT差別や人種差別と比べて、宗教差別の感覚がまだまだ残っていると感じますが)

「天理教×○○」は、今まさにチャレンジする人がどんどん増えてきているので、ガンガン盛り上がってほしいです。


フェーズ3.次の次の天理教 「未信者×天理教」


ようやくここからが、今回書きたかった本題です。
(今までの部分は単なる繋ぎなので忘れていただいて結構です笑)

次の次の天理教とは、
「天理教を信仰していない人でも、天理教の教えを使うえる段階」
この段階だと考えています。


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図1のように、
世間から「見えない価値(知識、経験、人間関係)」を取り入れて、
社会に「見える価値(仕事、物、居場所)」を還元していく形(天理教×〇〇)が今後も主流になってくると思います。

このスタイルは確実に必要なのですが、天理教が今後世界宗教になる上で欠かせないのは、下の図2のような状態だと思います。


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このように、
天理教の「見える価値(仕事、物、居場所)」ではなく
「見えない価値(教え)」を世間に還元していくことが、将来的に必ず必要になってくると思うのです。

例えるなら、飢えている人に
食べ物を与えるのが「見える価値」を提供すること、
食べ物の取り方を教えるのが「見えない価値」を提供することになります。

単純に考えて、
食べ物を与える場合、相手が飢えないようにするためには食べ物を与え続けなくてはいけないので、自分の手の届く範囲しか助けることができません。

一方で、食べ物の取り方を教えれば、自分の手の届かない場所に行っても、その人は生きていくことができますし、その人がまた別の人に食べ物の取り方を教えれば、ねずみ算式に助かる人が増えていきます。

天理教の教えは、食べ物の取り方と同じ「見えない価値」です。

この「天理教の見えない価値」を、未信者の方が吸収できればよいのですが、現在天理教の教えを発信しているコンテンツは、未信者の方にはかなりハードルが高いと思っています。(このnoteを含む)

教祖から教えて頂いた天理教の教えは本当に素晴らしい教えなのに、それを熱心な信仰者しか使えない現状がすごくもったいないと思います。


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問題は、天理教に興味を持った未信者の方が、信仰者と関わらなくても参考にしたり、知識ではなく「自分の生活に取り入れられるような教え」を吸収できるコンテンツが無いことです。
(それっぽいものはありますが、まだまだハードルが高いと思います)

そこで、とりあえず粗悪品でも良いので未信者が使える武器が必要だと思い、昨年から始めたのが
「天理教で人生を攻略するラジオ」です。


内容はかなり尖っているんですが、
「天理教」という名前を冠しているものから、教えを未信者の方に取り入れてもらう為には、このくらい世間に寄せていった方が良いんじゃないかと思いながら毎週更新してます。

(内容は尖っているので好き嫌いがあると思います。これは無難なものに面白さを感じない僕の趣味嗜好なのでご了承下さい。)

「フェーズ3 未信者×天理教」については、おまけタイムで
「シャア専用ザクだけで戦況は決まらない」
と題してもう少し書こうと思いますので、ここでの説明は一旦終わりたいと思います。


天理教を掲げる


「誰でも使える」というのは、言い換えれば「誰でも親しめる」と言うことだと思います。

「誰でも親しめる教理の打ち出し方」をする際「天理教の名前を表に出すこと」は必要なんじゃないかと思ってます。

その理由は3つあって
1、「天理教」の名前が付いてないと、「天理教」と検索しても引っかからない。
2、自己啓発や他宗との違いを出しにくい。(他のノウハウや他宗の教えと勘違いされてしまう)
3、もっと詳しく知りたいと思った人が、天理教へと繋がる動線を確保するため。

1と2は説明しなくても明白なので、3の動線を確保する理由について説明をします。

天理教の教えは、たすけて貰う側よりも、たすける側に立った時に強い光を放つように思います。

つまり「人だすけをしたい」という方が信仰するのに、これほど素晴らしい教えはないと思うのです。

もっと詳しく知りたいと思った方に、自分がたすかりたいではなく、「人をたすける喜び」という天理教の根底にある魅力や素晴らしさを伝えたいです。

そのためには、やはり信仰の魅力を知っていただきたいので、天理教という名前を冠することで動線を確保するのが良いと思います。


「社会に出てから教会長になった方が良い」という搾取思考


ことの(天理教の未来予想図について考えることになった)発端はお風呂に浸かっている時にふと思い浮かんだ、
「教会後継者は社会に出てから教会長になった方が良いって言う人いるけど、あれって搾取する側の考え方が根本にあるんじゃね?」
という疑問です。

これだけじゃ何が搾取なのかチンプンカンプンだと思いますので、説明したいと思います。

いずれ教会長になる後継者になる人物に対して
「社会に出てから教会長になった方が良い」
という人は、
「一般常識を身につけて、常識外れなことを言わない教会長になって欲しい」
といった自分に被害がきて欲しくないという超内向きな思いや、
「社会の人がどんな苦労をしてるか知っておけば、おたすけに役に立つ」
といった、世間から「見えない価値(ニーズや様々な知見)」を取り入れて、社会に「見える価値(仕事、物、居場所)」を還元したら良いという考え方等が主にあると思います。


つまり天理教が何を搾取しているかというと、下の図1のように「目に見えない価値」(知識、価値観、人間関係等)を搾取しているんです。
(おっと冒頭の図に繋がりましたね)

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「社会で得た「目に見えない価値」知識、価値観、人間関係等を使っておたすけ(社会貢献)しているなら良いんじゃないか」

と言った考えもあるかもしれませんが、これって結局、提供しているのは「目に見える価値」であって、
「目に見えない価値」は自分でしか使っていないんですよね。

「目に見える価値」と「目に見えない価値」には圧倒的な価値の差があります。
目に見える価値は、時が経てば無くなったり盗られてしまうこともありますが、目に見えない価値は、無くなることも盗られることもなく、自分の中に財産として残り続けます。
(稿本天理教教祖伝逸話篇「63.目に見えん徳」を思い出します)

さらに先程述べた、
「飢えた人に食べ物を与えるか、食べ物の取り方を教えるか」
ということにも繋がってきます。

ですから、価値が高いのはどっちか考えると
「目に見える価値」<「目に見えない価値」
なんじゃないか。

そしたら天理教は図2のように「目に見えない価値(教え)」をもっと世の中に還元していかなくてはいけないんじゃないか。

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このように考えたのが、今回の記事を書くに至った経緯です。


信仰はロマン


将来的に天理教は、
「天理教を表に出さないお助け」→「天理教×○○」→「未信者×天理教」

こんな段階を踏んでいったらいいんじゃないかと思う根底にあるのは、

「信仰にロマンを感じる」

この一点に尽きるからです。

一生天理教に人生を費やしても「陽気ぐらし世界」という目標には遥かに及ばないと思いますが、そこに人生を費やす価値を感じるというか、めちゃくちゃ魅力的なロマンを感じるんです。

これは若さ故に感じる、みたいな部分もあるのかもしれません。

しかし、信仰は歳をとるほど惹きつけられるような側面も持っていると思うので、多分この感覚は一生かけて育んでいくんだろうと思っています。

だから、この教えの魅力をもっと大勢の人に知ってもらいたい。

今回の記事は、そんな僕の願望もこもった未来予想図でした。


おそらく、おまけタイムの説明が一番分かりやすいと個人的に思っているので、それも読んでって下さい。


※2月6日補足

「天理教を表に出さないお助け」→「天理教×○○」→「未信者×天理教」

これは、このようにフェーズが変わっていくということではなく、下の図4のようにフェーズを積み重ねていくイメージで書いてます。

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おまけタイム


どーも!久しぶりに午前2時くらいまでnoteを書いてる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回も本編に雰囲気が合わないけど、思い付いた事を勢いで書いていくシリーズをやっていきたいと思います。

※ただただ思った事を書くので、正しいかどうか、補足説明や言葉遣いなんかは一切気にしない方向でいきます。


「シャア専用ザクだけで戦況は決まらない」


天理教の教理は「シャア専用ザク」みたいなものかもしれない。

シャア専用ザクとは高性能な代わり操縦が難しく、シャアしか使えない機体のことで、天理教の教理はまさにこの「シャア専用ザク」だと思う。

「シャア専用ザク」がどれだけ高性能でも、大半の人々は使えない。
「シャア専用ザク」がどれだけ高性能であったとしても、それだけでは戦況を変えることはできない。

戦力を決めるのはどの時代も質ではなく量であり、戦局の鍵を握るのは「量産型」の存在だ。

スペックを多少落としてでも、多くの人間が扱うことのできる機体。それが戦局を握っている。

やっとの思いで格納庫に辿り着いても「シャア専用ザク」しか置いていなかったら引き返さなくてはいけないように、いざ天理教の教えを学ぼうと思っても、いきなり「おさしづ」を目の前に積まれたら、それはもう絶望しかない。

全員がシャアになるのは不可能だ。

理論上、全人類どころか日本人に限っても全員ようぼくになることは出来ない。

そう考えると将来的に鍵を握るのは、開発がもう少し早ければ一年戦争の結末が変わっていたと言われる「ゲルググ」のような「高性能な量産型」の開発かもしれない。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





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