236.「言わん言えんの理」=「かしものかりもの」・「心一つが我がの理」


はじめに


最近、おかきさげについて考える機会がありました。

その時に
「言わん言えんの理」は、
「心一つが我がの理」の事で、
「かしものかりもの」の事を言ってるのか。

と腑に落ちたのですが、おかきさげに関する論文や本を確認してみても、そのように解釈しているものを見つける事ができませんでした。
(知ってたら教えて下さい)

なので、今日はもしかしたら完全に個人の悟りというか、持論を展開することになるかもしれないので、いつもより入念に、僕の思考のプロセスを噛み砕いて書いていきたいと思います。


「言わん言えんの理」


まず「言わん言えんの理」について、一般的にどんな解釈がされているのかを見ていきたいと思います。

天理教辞典
言わん言えんの理
「おさしづ」の用語。言いもしないし、言うこともできないということの意味。
「難しい事は一つも言わん。言わん言えんの理を聞き分け。」(さ22・7・7ホ)
とある。同じく、「さづけの理」をいただいたときの「書き下げ」には、
「どうせこうせこら言わん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。」(さ22・11・11ホ)
という言葉が見られる。ここから考えれば、具体的に指図されなくても自ら進んで天の理に目覚めるべきであることを求められたと言える。
「おかきさげ」を読む 中山慶一
(ここは長いので、一部抜粋です)
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。言われてしたのでは当然のことで、あんまり意味がないんです。
また、信仰というものは、ああせい、こうせい、と言われて強制されてしぶしぶ通るような道ではないのです。まず自ら求めて積極的に行う道なのです。
みちのとも 立教162年(1999年)2月号 p23
おかきさげを味わう 言わん言えんの理 山口 渡
「どうせこうせ」ではなく、「言わん言えんの理を聞き分け」よ、と諭される。言われたからするのではなくて、言われなくても心底からこれがしたい、こうさせてもらいたいということがきっとあるはずだ、と親神様は見られている。

このように、
「言われなくても自ら行う事」
という意味で「言わん言えんの理」が説明されています。





でも僕はそんな風に受け取れないんですよね。





そういう意味に読めないんです。





と言うことで、ここからは僕の持論を解説していきます。


「言わん言えんの理」=「心一つが我がの理」


まずは「おかきさげ」を見てみましょう。

難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。

「言わん言えんの理」はここで出てきます。

この「言わん言えん」の主語は誰でしょうか?

これは人間ではなく、親神様が主語だと思います。

では親神様は何故「言わん」のか、何故「言えん」のでしょうか?

ここの解釈が今回の肝になってきます。


まず「言わん」という事についてですが、「言わん」には親神様の意思が含まれていると思います。

つまり、
「言うことは出来るんだけど言わないんだ」
という意思です。

この「言わん」の解釈は、僕も先にあげた文献と同じで、
「人間が自ら悟る」
という事を、親神様は求められているんだと思います。

しかし、
文献では「言わん」の意味は説明しているのですが「言えん」の意味を説明していないんです。


ここはかなり重要な部分だと思います。


「言えん」という事は、意思よりもっと強い「強制」の意味合いが込められています。

つまり
「元の神・実の神」である親神様であっても
「言う事は不可能」
だという事を表しています。

当時は本席様が御在世だったので、その気になれば本席様の口を通して言えるはずです。

ですから、そういった物理的な問題ではありません。

親神様が人間に対して直接言う事は、
親神様が人間を創造される時に作り上げた原理原則(理)に反する事になるから言えないんです。

その原理原則とは
「心一つが我がの理」
です。


子供が親に公園に連れて来てもらって
「さあ自由に遊んでいいよ」
と言われたのに、
「この公園は滑り台が面白いから、滑り台で遊びなさい」
「砂遊びは他の公園でもできるからあっちの遊具で遊んできなさい」
と、親からいちいち指示されていては、自由に遊んでいるとは言えません。

これと同じで、
「心だけは自由」
と言われているのに、親神様から
「ここはこうしなさい」
「あれはああしなさい」
と指示があっては、それは「心の自由」とは言えません。

つまり、親神様は人間に対して直接的に言う事ができないのは
「心一つが我がの理」
と言う原理原則を守るためだと僕は考えます。


「言わん言えんの理」 まとめ


以上の事から、

「言わん」→悟りを促されている
「言えん」→「心一つが我がの理」を指している

という事になります。

更にここから、
「言わないんだよ」
「言えないんだよ」
とわざわざ説明しているという裏側を読むと、
「言葉とは別の方法で伝えるよ」
と言う事が読み取れます。

「世界は鏡」であり、おさしづでも、
「心通り皆世界に映してある」(明治21年1月8日)
と言われています。

また、「おふでさき」では何度も何度も、身上・事情は神様からの手引きだと言う事が書かれており、その身上・事情(かしものかりもの)を通して神様の思いを悟るよう促されています。

それらを合わせて考えた時に、「言わん」と言う言葉の中に、
言葉では教えないけれども、「かしものかりもの」を通して神様のメッセージを伝えているよ。
という意味が読み取れます。

そうすると

「言わん」→「かしものかりもの」を通して悟りを促されている
「言えん」→「心一つが我がの理」を指している

このように解釈できると思います。

これらを元に

言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。

ここを丁寧に解釈すると、

言わないのは、親神様は人間に対して身上・事情(かしものかりもの)を通して、積極的に悟って欲しいと願われているからです。
言えないのは、親神様が直接教えると「心の自由」が無くなってしまうからです。その事が分かったなら、
どんな事も鮮やかに分かってきます。

こんな感じになるんじゃないかと思います。
(「何かの理」の解釈についても色々とあるのですが、ここでは割愛します)


段落の問題


皆さんご承知の通り、「おかきさげ」では「言わん言えんの理」と「かしものかりもの」は連続して説かれています。

難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。

しかし一応現在の解釈では

難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。
(ここに段落がある)
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。

このように、ここに段落があると言われています。

しかし先程の僕の解釈だと、ここに段落があるのは不自然です。

僕は「それ人間という身の内というは」の「それ」は「言わん言えんの理」を指していると考えています。

つまり

それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。

ここの解釈は、

「言わん言えんの理」の中身は、人間の身体は「かしものかりもの」で「心一つが我がの理」という事になります。

こう読むとすっきりすると思います。

段落はもう一つ手前の、

生涯の理を諭すには、よく聞き分け。
(段落候補1)
難しい事は一つも言わん。
段落候補2)
どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。

この2箇所のどちらかに段落があるんじゃないかと思ってますが、段落についてはまだ検討を重ねていませんので、これからじっくり考えていきたいです。


以上が僕の解釈なんですが、何か意見のある方は是非教えて下さい。

よろしくお願いします。


おまけタイム

どーも!進撃の巨人最終巻に震える男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

皆さんは「進撃の巨人」の最終巻を読み終わりましたでしょうか?

僕は、凄いという言葉では言い表せない感覚に、今浸っています。

ネタバレとか、意味が伝わるとかを一切無視して書くと、

エレンの死が「ゼロレクイエム」を彷彿させ、
その死の目的に、
「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と
「私の願いは、全ての魔女を消し去る事」
を思い出さずにはいられませんでした。

読者の想像を上回り続ける構想力と意外な展開を繰り広げる中で、最後に王道という名にふさわしいエンディングを迎えた事に、100時間くらい心を宙吊りにされるような感覚を覚えているところです。

こんな感じで、分かる人には分かる?僕の率直な思いを書いたところで、今回のおまけタイムを終了したいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



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