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228.夫婦別姓問題について 天理教的思案


はじめに


以前こういうツイートをしました。


僕自身が他宗教の人と関わったり、実際に他宗教の人と関わっている人の話を聞くと、
「キリスト教ではこう考えます」
「浄土宗ではこう考えます」
「天理教さんは○○の問題に関して、どのように考えますか?」
といったように、社会問題や明確な答えが出せていない問題に対する考え方を求められることが多いです。

というより、他宗の人と話す際は「社会問題」や、「死や人生といった普遍的な問い」が共通言語なんだと感じています。
(新型コロナウィルスを天理教はどう捉えているのかという質問は、他宗の方から今でも飛んできます)

ですから、天理教信仰者として
「社会問題をどう考えていくのか」
と教理に基づいた(自分なりの)見解を持っておいた方がいいと、ここ最近つくづく思っているので、ちょっとこのnoteでも取り上げてみようかと思います。


夫婦別姓問題について


天理教教会本部は、社会問題に対して公式見解をあまり出していないと思われがちですが、実はそんな事は全くありません。

「天理教ではこう考えるのだ」
というはっきりとした答えではありませんが、
「こう悟ることができる」
といった一つの案としての提示は、むしろ積極的に行われています。

例えば、道友社から2004年に出版されている「道と社会」には、社会問題に対して天理教の教理を元にした思案が数多く掲載されてます。

今回は、この本の中から「夫婦別姓問題」について、天理教ではどう考えるかを紹介していきたいと思います。

ちなみに、みちのとも2002年9月号にも掲載されている記事です。

今から約20年前に、天理教はすでに「夫婦別姓問題」について見解を示していたとは驚愕ですが、いかんせん時期が早過ぎてほとんどの人がその事実を知りません。

そこで、このnoteを読めば「夫婦別姓問題」についての大枠が掴める状態にしたいと思いますので、3000字以上を本からの引用と僕が短くまとめた文を記載しますので今回は記事がかなり長いです。
あと、20年程前の問題提起ですので、今とは状況が違うこともご了承下さい。


夫婦別姓をめぐって


精神的苦痛と社会的不利益


ここでは、姓が変わる事によるデメリットを挙げています。

1、自分が自分でなくなったような自己喪失感・違和感が生じる
姓名は人格の重要な一部であり、改姓することによって、それまでの自分ではなくなったような大きな精神的苦痛を感じる人がいる。

2、女性の側がほとんど改姓している現状では、夫と妻の間の不平等感が付きまとう
実情98%は女性が改姓している。(2002年時点)

3、その人が積み上げてきた社会的実績や信用の断絶

学者や研究者ならば、以前に発表した著書や論文などにおける執筆名。経済人なら取引先との関係など、社会的に名前が知られていればいるほど、改姓による不利益も大きくなる。

4、改姓に伴う手続きの煩雑さ

「通称」を利用している例はあるが、パスポートや健康保険証等は、戸籍名でなければならない。

5、結婚・離婚・再婚などのプライバシーの公表をいや応なく強制される

6、夫の「家」に吸収される感が否めない。

ここで挙げられている夫婦同姓によるデメリットは、当時から20年が経過した現在でもほとんど変わっていないと思います。


夫婦別姓制度への懸念



ここでは世間や宗教界が表明している夫婦別姓問題に対する根強い反論が4つが挙げられています。

1、親子の別姓化が最大の問題
別姓論者は個人主義の見地から夫婦間の平等のみを論じているが、子供への心理的影響、子の人権、親の子に対する責任と道徳的義務についても論じるべきである。

2、憂慮される非法律婚と離婚の増加

同姓制度は第三者に対し、家族であることを示すのが容易になるという利点がある。同時に、安易な離婚を許さず、社会的に個人の責任を自覚させるという側面もある。しかし、別姓制度が導入されれば、同棲しているのか届け出をした婚姻夫婦なのか外見から区別できない。
 そのため、世界で最も離婚が容易であるという日本の実情を併せて考えると、ますます離婚が増加するのではないか。また、外見上区別がつかないのをよいことに、同棲や内縁関係といった非法律婚、事実婚が増加していくことも憂慮される。
 そうしたケースが増えれば届け出のない事実婚にも、法的な夫婦と同じような法律効果を認める要求が出てくることも予想される。そうなると、法律上の婚姻制度そのものが破綻するのではないか。

3、社会的混乱

電話帳、住宅地図なども別姓の同居人として別々に氏名を掲載する必要がある。また、夫名義の預金を引き出す際、別姓婚姻夫婦であることを証明する必要が出てくる等、様々な混乱が引き起こされ得る。

4、過度の個人主義が蔓延する恐れ

欧米では過度の個人主義が蔓延して利己主義化し、人々はそれぞれ孤立化して、家庭や社会に深刻な問題が生じた。いまは、その反省期に入っていると思われる。
欧米は、個人を超越した絶対的な「神」との契約という厳しい宗教倫理を社会や個人の内面規範とする国々である。そうした信仰に基づく個人道徳を持たない多くの日本人にとっては、個人主義が容易に利己主義に転化する恐れと危険性が大きい。同じく「個人の尊厳」といっても、欧米と日本では根本的に事情が違うのである。 
 いま生きている一代限りの自由と欲望の充足を第一とする利己主義が広がれば、姓道徳の問題や父母・祖父母の扶養の問題、先祖の祭祀の継承など、これまで醇風美俗(じゅんぷうびぞく)とされてきた精神文化伝統の崩壊に拍車がかかるのではないか。
 また、日本人はこれまで信頼性の高い人間関係を保持し、安全で安定した社会基盤を築き上げてきたが、個人主義や利己主義が蔓延すると、1人1人の間に不信と対立が増幅され、さまざまな争いや訴訟事件が多発していく恐れがある。

この「夫婦別姓制度への懸念」は、先ほどの「精神的苦痛と社会的不利益」と比べてちょっと古臭く感じます。

個人的には、1、2、4に関しては個人の予想でしか無いですし、この文が書かれてから20年近く経って現在の日本の状況はかなり変わってきています。
また、「夫婦別姓」が特段珍しく無いものだと社会に認知されれば、挙げられた問題は解決すると思います。

ちなみに3の問題は、テクノロジー(マイナンバーカード等)が解決してくれるので問題無しです。



庶民の「姓」は明治から


江戸時代は名字は上級身分の特権として、人口の約6%しか持っていなかった。
しかし明治3年になり「平民名字許容令」が出て庶民の名字公称が許され、明治8年に「名字必称令」が出て国民全員が持つようになった。その後、家族が同じ姓を称することや、婚姻によって妻が夫の家に入ると規定されたのは明治31年のことであった。
苗字を名乗ることが出来るようになった喜びや、家族揃って農業や商業を営むことが多かった当時の状況を考えると、姓そのものを考える前に、夫婦のあり方についてどう考えるべきかを探り、そこから思案する必要がある。

歴史を知る事って大事ですね。


夫婦の心を一つに治める

ここでは、夫婦別姓の問題を考える際に、そもそも夫婦について原典にはどのように述べられているかが書かれています。

私たち人間は、親神のご守護の世界において生かされて生きている。そうした中にあって、人間がそれぞれ夫婦となるのも、親神のご守護に基づいている。おふでさきに
「せんしよの いんねんよせて しうごふする」(1-74)
と示され、おさしづで
「夫婦の中と言うてある。夫婦皆いんねんを以て夫婦という」(明治28年7月23日)
として互いにたすけ合い、補い合って成人するように、と組み合わされたものである。
みかぐらうた第二節には、
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし

と示されるように、夫婦は社会を構成する最小単位である。
このような夫婦のあり方としては、
ふたりのこゝろををさめいよ
なにかのこともあらはれる 4下り目 2

と教えられ、おさしづでは、
夫婦の中のたんのう一つの理、互い〳〵とも言う。さあこれより一つしっかり治めるなら、いかなる事も皆んなこれ思うように事情成って来るという。
(明治30年7月19日)

と諭される。
こうした教えに照らしてみるとき、親神の望まれる陽気ぐらし世界の実現のためには、まず家族(社会の基本的単位)の核である夫婦が、お互いの心を一つに「しっかり治める」事が最も重要なのである。


信仰上のさまざまな思案


このトピックが本題なので、少し長くなりますが原文そのまま引用したいと思います。

では、「夫婦別姓」に関して信仰者として具体的な見解を求められたときに、どう答えられるだろうか。考え方は、およそ4つに大別できる。

1、現行の「夫婦同姓」を肯定する考え方
道の先人たちは、結婚とは「いんねんある家へ戻ってくること」と言い伝えてきた。いんねんある者同士が寄って夫婦となり、子を産み育てることで、生命は連綿とつながってきた。親子となるのもいんねんによるもの、つまり親神のおはからいである。そのはからいの中にある自分自身や家族の事を思案するときには、自分たちの世代だけでなく、両親、祖父母、曾祖父母と代をさかのぼって考えることが必要な場合もあり、一方で子、孫、ひ孫と代を重ねた先を視野に入れて、現在のあり方を考えることもある。そうした夫婦・親子・兄弟姉妹が、親神のご守護で組み合わされた家族である事を自覚し、心をそろえ、絆を深めていくためには、姓は「家族の名前」として同一であることが望ましい。

2、同性を原則とし「通称」を取り入れる考え方
現代社会における男女平等の浸透や女性の社会進出という動向を考慮し、現行の夫婦同姓のうえに立って、いわゆる「通称」を認めると言う見解が考えられる。ただし、日常生活において、通称が用いられるようになると、制度的に大変煩雑になり、同じ家族が二つ存在するようなことにもなりかねない。このような問題点をはらんでいることにも留意すべきだろう。

3、「選択的夫婦別姓」もしくは第三の姓を導入する考え方
「選択的夫婦別姓」を容認し、さらに諸外国の事例に見られるような両方の姓を二つ並べて用いるといった「第三の姓」を考慮するという見解がある。ただし、その場合には、夫婦別姓論を支持する人々も認めているように、別姓あるいは第三の姓を持つ夫婦が、子の姓をどうするかということが、最も大きな問題点となっている。

4、同性か別姓かは本質的な問題ではないとの考え方
夫婦の心が真に治まっていれば、夫婦同姓か夫婦別姓かという問題は、あくまで二次的、形式的な事柄である。同姓であっても、真に2人の心が治まっていなければ意味がなく、別姓であっても心が治まっているなら夫婦である。社会・文化などに応じて多様であってもよい、との見解である。
言うまでもなく、本教は世界のどの社会や文化にも妥当する世界宗教である。その教えによれば、夫婦の心が治まるとき、それが家族の治まりへとつながっていくのである。基本的に、夫婦同姓であるべきとか夫婦別姓であるべきという形式にこだわることなく、それぞれの社会や文化の状況に応じて対処していくという姿勢がであろう。

以上4つの選択肢を上げたが、たとえどの立場を採るにしても、銘記すべき点は、夫婦の姓そのものについて、三原典の中には教示されていないということである。また、時代背景もあるだろうが、教祖はそのひながたにおいて、おぢばに引き寄せられた人々に対し、多くは姓ではなく、子供に接するように親しく、それぞれの個人名で語りかけられている。こうしたことから、教祖は人類の親として、人間が形に左右されることなく、親子・夫婦・家族の1人ひとりが、それぞれの心を治めることを第一に促されているのだと悟ることもできる。
 また「夫婦別姓」の問題は、現代社会において家族が抱えている他の深刻な諸問題とも有機的に連関している。表に現れた「同姓か別姓か」ということだけでなく、家族の諸問題の中に位置づけつつ、慎重に考える必要がある。
夫婦が同姓、別姓のいずれを選ぶにせよ、その判断の根底や背景にある、夫婦それぞれのものの見方や考え方に目を向け、談じ合い、思案を深める必要があるだろう。

これが、天理教の教えから「夫婦別姓問題」について考えられる事として「道と社会」に記載されていた部分です。

僕が凄いと思ったところが3点あるので挙げさせて頂きます。

1、別々の立場から4つの考え方を提示している事
本来であれば、
「『4、同性か別姓かは本質的な問題ではないとの考え方』これが天理教の考え方です。」
と言い切っても良かったのではないかと思います。
しかし、そう言った断言はせずに、それぞれの立場に立って4つの考え方を提示している事が、懐の深さを感じて凄いと思いました。

2、教えに照らして導き出された答えは古くならない
20年前と現代とでは、人々の価値観も社会の状況も全く違います。
なのに、教えに照らし合わせて導き出された考え方には、一切の古さを感じませんでした。
時代を越えて通用する教えの普遍性を強く感じました。

3、課題を提示している
表に表れた「夫婦別姓問題」だけでなく、その問題は起こってくる背景(より根源的なもの)に目を向けなくてはいけないと、最後に課題を提示している事です。
ここまで考えて見解を記載しているのに、更に考える余白を提示している事が凄いと思いました。

今回はもう5000字を軽く越えてしまっているので、本文はこの辺で終わろうと思います。(疲れた)



おまけタイム


どーも!夫婦で寝落ちしまくりな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

えー先週、ついにnoteを一週間以上更新する事ができませんでした。

その理由は、子供と一緒に1週間の内4日寝落ちしてしまったからです。

つまり、4日も21時に就寝する日があったという事で、そうなってしまえばnoteを書く暇など全くありません笑

なぜか先週になって、急に布団が気持ち良くなったと嫁と一緒に話しております。

という事で、本文も長かったですし、今日はただの言い訳するだけのおまけタイムという事になります。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!