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216.「親としての心構え」深谷源次郎


はじめに


河原町大教会初代会長である深谷源次郎氏(以下深谷氏)の逸話は、現代を生きる僕達に刺さりまくるものが沢山あります。
(僕だけかもしれませんが…)

特に、子を思う親心と陽気な生き方は、時代を超えて通じるものがあり、この姿が「直属教会30ヵ所以上からなる、河原町系「斯道会」の礎を築き」、昭和時代に単独布教師から大教会を築かれた「東中央大教会初代会長柏木庫治氏に多大な影響を及ぼした」ということを考えると、信仰者としては是非知っておきたいことだと思いますので、僕が飽きるまでの間、しばらく深谷氏について取り上げていきたいと思います。


どんな信者も我が子のように接する


講元・講脇へのお仕込
明治十九年の春、號名下附の制度が出来てから、各講の講元や講脇によくこういう事を申された。
「講元は効能の本(元)であり又子の本(元)であるから親である。講元を父親とすれば、講脇はその女房役であるから母親である。それで講社の人が見えれば、我が子が家に戻ってきたのと同様、充分満足を与えるよう大切に世話して上げてくれ……。又親は子が病気にでもなれば、自分の命に代えてもと願うものである。講社の人に身上患いの人出来れば、命を捨てても救けねば子の本(元)、親とはいえようまい。
出典:初代会長様 天理教河原町大教会史料集成部

深谷氏が、このような話を講元(講社の責任者)や講脇(講元の補佐)にされていたということから、
「全ての信者を子供と思う親心」
を大切にしていたことが見受けられます。

以前にも深谷氏について記事を書きましたが、その内容も、
「全ての子供が物分かりの良い子ではなから、まずは親が子供のために動くことが大事である」
というものでした。



この態度は教祖にも当てはまっていて、どんな方が訪れても
「よう帰ってきたなあ」
と温かく迎えられていました。

さらに教祖は、相手の目線(成人)に合わせて対応を変えられています。

例えば「おふでさき」を見ても、
読み手である子供(人間)の成長に合わせて、「神→月日→をや」と呼称を変えられています。

「稿本教祖伝逸話篇」では、
力自慢には力、
商売人には商売の話し、

といったように、相手に合わせて対応を変えられています。

こういったことを併せて考えると、
「相手の目線(成人)に合わせる」
ということが、とても大切になってくることが見えてきます。


しかし、
「相手ばかりに合わせていたら、理を立てることができない」
このように考える方も、もしかしたらいるかもしれません。

でもこれはただの言い訳で、すべき努力を怠っているだけではないでしょうか?

人助けをしても、こちらの言いたいことばかりを言うだけではただの自己満足です。

相手に合わせて、教語や古い言葉に込められたお思いを、分かり易く伝えるため試行錯誤することは、現代を生きる信仰者にとっての役割の一つですし、何より「ひながたを辿ることになる」のではないかと思うのです


寿命のお供えスタイル


深谷氏は、「信者を自分の実の子供のように思い、命捨てても子供(信者)を救う」という気持ちでお助けされていたようで、これについては、河原町大教会史にも以下のように詳しく書かれています。

ある講社では講中に身上者が出ると、子供である信者を出直させては親の役目が務まらない。しかし「我が命に代えて」とお願いし、願いどおりになれば困るとのことから、そこで一策を案じ「私の命を1年分だけお供えするから、あなたも1年分お供えをしてくれ、あんたも………」と、1年分ずつの命。合計何年分よいう形でお供えし、身上のお願いづとめにかかったこともあったという。
出典:河原町大教会史第一巻

何が何でも信者を助けるという、心意気が感じられると共に、
「『我が命に代えて』とお願いし、願いどおりになれば困るとのことから…」
このように、神様は願い通りに働いて下さると信じ切っていることも読み取れます。

自身の寿命をお供えして神様にお願いすることは、先人のお助けでは良く聞く話ですが、願い通り自身の命が無くなっては困るから、複数人の寿命を1年ずつ集めてお願いするというのは、面白いと思いました。

この寿命のお供えに関して言えば、東本大教会初代会長の中川よし氏の態度は深谷氏と対象的で、比較してみると面白いです。

(前略)本三宿分教会長坂野さくは、次のように話している
「ある時、亡くなられる五、六年前でしたか、会長様がおっしゃいました。私がもし病気しても、決して神様にお願いしてはいけないよ。私はね、自分の生命を切りつぎ切りつぎお願いをして、随分たくさんの人様たすかって頂いたんだよ。この間勘定したら、もう私は三百五十何歳になっている。そんなのが厚かましく生きているんだからね」
出典:大いなる慈母

中川氏は残り寿命等、自分の都合は全く勘定に入れず、とにかく助けて頂きたいという思いから、お助けしていたことが読み取れます。

2人の寿命のお供えに関する考え方は真逆ですが、どちらが正しいと言うのではなく、神様に真実の心を受け取って頂きたいという強い気持ちが、両者から垣間見えます。

肉親である親・兄弟・子供のためであれば、命をかけてでも助けて頂きたいという気持ちは持てますが、そうではない信者のために命をかけるというのは、中々できることではありません。

こんな先人のような、誠真実の心にあこがれてしまう僕なのです( ˘ω˘ )


おまけタイム


どーも!家の結露に悩まされる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

昨年のおまけタイムでも話した気がしますが、家の結露がハンパないです。

うちは窓がめちゃくちゃ大きいうえに、サッシのついていない、はめ込み型の窓があり、結露の水滴がダイレクトに壁を伝ってきます。

特に今年は寒く、子供のために暖房をガンガン使っているので、結露対策シートをしても焼け石に水です。

そこで、お手軽にできる、結露対策を考えたいと思います。

方法1、気付かない作戦
昔の偉い人の言葉に
「気付かなければ、存在しないことと同じ」
という言葉がありました。
つまり結露も、気付かなければ存在しないということになりますので、とてもお手軽です。
朝カーテンを開ける時に窓を全く見ないようにする必要がありますが、その難点を除けば完璧な作戦です。

方法2、常に換気する作戦
結露は室内と室外の温度差が原因だそうです。
ですから、室外の温度を室内と同じにするか、室内の温度を室外と同じにすれば結露は起こらないと言う計算になります。
室内の温度を外と同じ温度にするのは、子供が風邪を引くので不可能です。
ですから、室外の温度を家の中と同じにするしか選択肢はありません。
窓を開けたまま暖房をガンガン炊いて、家の周辺も暖めることが出来れば結露が出来ることはないでしょう。
家の周辺まで暖めるのに、どれだけの暖房が必要分からない事と恐ろしいくらい電気代や燃料代がかかることが難点ですが、そこさえクリアすればこっちのものです。

方法3、窓自体を無くす作戦
そもそも窓がなければ、窓が結露することに悩まなくて言い訳ですから、窓そのものの存在を消せば、全て解決です。

以上、どれも完璧過ぎる結露対策ですので、結露で悩まれてる方は是非お試し下さい。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!