254、「よふきゆさん」ってどんな意味?
はじめに
「ひがし通信第18号」に「時代背景のとらえ方―教祖伝理解のために― 」と題して、石崎正雄氏が時代背景をどのように考えていくかについて書いてました。
すごく面白い内容だったので、今回はその中から
「よふきゆさん」の時代背景
について紹介したいと思います。
時代背景が「必要ある読み方」「必要無い読み方」
おふでさきや逸話を読む際に
「時代背景は大切」
というのは周知の事実だと思いますが、
「時代背景が必要無い読み方もある」
という意識を持っている人は、案外少ないのではないでしょうか。
石崎氏はそのことについて、このように説明しています。
たとえば我々が万葉集を読むという場合、別段、我々が奈良時代の状況をしらなくとも、万葉集を読んで面白いわけです。
同じような事が宗教の場合にも言えるわけで、どの宗教にも教祖の言葉というものは、永遠不滅なもんだ、という考え方がありますね。どの時代でも、その言葉をそのまま受け取ればいいんだよいう考え方も成り立つわけです。だから我々はその時代を何も知らなくても、その言葉というものは、そのまま今の自分の持っているもので受け取っても結構受けとれる。そういうものがあるわけなんです。
確かに、
教祖のお言葉を自分の感覚で受け取ることは、時代背景を必要としません。
「今朝読んだおふでさきが、今の自分にすごく響きました」
みたいな読み方は、まさに
「時代背景が必要無い読み方」の典型的な例だと思います。
一方、「時代背景を必要とする読み方」は、
教祖のお言葉を自分の感覚で受け取るではなく、
当時の人間として理解するために必要になってきます。
その一例として石崎氏が取り上げているのが、今回の主題である
「よふきゆさん」
という言葉です。
「ゆさん」の意味
「よふきゆさん」の「よふき」は「陽気」という意味であることは理解できますが、「ゆさん」の意味はなんなのでしょうか?
石崎氏によると
禅宗のことばに、心や体を、つまり心身を、天理教でいう「すます」わけなんですね。非常に心身がすんで、山河に悠々自適する。これが「ゆさん」である。これが転じて修行のために山野をあちこち歩き回って修行することを「ゆさん」という。これが一番最初のことばだと。
それから転じてだんだん心楽しく山野にいくことが、「ゆさん」となっていくわけです。「大日本国語辞典」だと、そういうふうに何段階にもわけて説明が書いてあります。
このように「ゆさん」とは、元々禅宗の言葉で、それが段々遊びにいく意味になっていったのだと説明されています。
僕は疑り深い人間なので、本当にそう書いてあるのが、念のためにグーグル先生にも教えてもらいました。
ゆさん(遊山)
①仏語。禅宗で、一点のくもりもないはればれとした心境になって、山水の美しい景色を楽しみ、悠々自適に過ごすこと。また他山に修行遍路の旅をすること。
②山野に出かけて、花見・紅葉狩・茸狩などの遊びをすること。行楽。
③遊びに出かけること・気ばらしに外出すること。
④気ばらしをすること。なぐさみ。
精選版 日本国語大辞典
確かに石崎氏の言う通り、禅宗の意味も書いてありました。
ここで注目したいのは、日本国語大辞典に載っている一つ目の意味です。
「ゆさん」が「一点の曇りも無い晴々とした心境」を指すことは、天理教を信仰する者として、かなり重要な意味を持つと思います。
宗教的な意味での「よふきゆさん」
そもそも「遊ぶ」という言葉には、宗教的な意味が非常に強いです。
例えば、
宗教者が布教や修行のために歩き回ることを「遊行」「遊化」と言います。
また、巫女さんがまいを舞うことを「神遊び」と言います。
稿本天理教教祖伝逸話篇168「船遊び」に出てくる遊びも、「遊行・遊化」という意味で使われています。
教祖は、ある時、梶本ひさに向かって、
「一度船遊びじてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ。」
と、仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられる。
では当時の人は、「よふきゆさん」を宗教的な意味合いでとらえていたのかと言うと、少しニュアンスが違うようなのです。
一般的な意味での「ようきゆさん」
石崎氏は「よふきゆさん」という言葉が当時一般にあったかどうかは、見つけることが出来なかったそうなのですが「よふき」と「ゆさん」別々に調べると、
遊ぶために社寺参詣をすることを
「陽気参り」また「ゆさん参り」
と言っていたそうです。
「陽気参り」「ゆさん参り」の意味は
○遊ぶために社寺参詣をする。
○社寺参詣という名を借りた遊び。
このような意味だそうです。
当時の人達の信仰観について石崎氏は
「信心参り一分、陽気参り六分、難儀な時に神頼み三分」
というような文章が出てきますが、信心で一分、遊ぶために六分、困った時に参るのが三分というような文章が出てきますが、信心で一分、遊ぶために六分、困った時に参るのが三分、というような事を当時の人は言っております。というような事を当時の人は言っております。
※ちょっと変な文章ですが、本当にこのように書いてありました。
このように述べています。
つまり当時の人々は「よふきゆさん」を
「信心参り一分、陽気参り六分、難儀な時に神頼み三分」
このように考えていたかもしれません。
当時の「遊び」に対する感覚
教祖ご在世当時は、「遊ぶ」ということは好ましくないことだという時代でした。
「遊んでいる奴がいたら説得しなさい」
という時代です。
「遊山」や「遊興」をするということは、農民にとって人生で一度はやってみたいという憧れであっても、それは出来ないし、してはいけない事でした。
そんな状況でしたので、
僕達が感じる「よふきゆさん」と
当時の人々が感じる「よふきゆさん」は
受け取り方が全く違ったと思います。
この事について石崎氏は
そういうニュアンスの違いというものを我々が理解しようと思えば、やっぱりその当時の時代背景、しかも宗教社会学のような大きな時代背景ではなしにもうちょっと細かい具体的な時代背景というものを、我々が知っておかなければならない。
だから教祖の時代だったら、陽気遊山を教祖がせえと仰言るのは、いわば当時の、倫理の逆を行っとるわけですね。
このように述べています。
つまり「遊ぶ」とは、当時の倫理に反する行為だったのです。
現代では、休日に遊んでリフレッシュすることが大切なのは常識ですが、当時はそんな常識ありませんので、遊びを肯定する事の「反社会性」は、かなり強かったことが想像出来ます。
まとめ
以上のことから、「よふきゆさん」の重要なポイントは3つあります。
1、「ゆさん」とは一点の曇りも無い晴々とした心境のこと。(澄み切った心)
2、「遊ぶ」には宗教的意味合いが強くある。(布教、修行など)
3、「遊ぶ」とは当時の倫理に反していた。
「1」と「2」は「ようきゆさん」自体の意味について、
「3」は当時の人達の受け取り方についてです。
僕なんかは、今まで「よふきゆさん」の意味を
「陽気に遊んで楽しく暮らすんだ」
としか思っていませんでした。
この解釈も間違いではありませんが、一つの視点でしか見ていない理解だったことは確かです。
石崎氏によると、おそらく当時の人達も、僕と同じような理解をしていた人が多かったと予想出来ます。
しかし、同じ意味で理解していても、当時の人にとっては倫理に反している言葉ですので、
「本当にそんな事になるのか!?」
「そんなことになれば、この世は極楽じゃないか」
「よふきゆさん」は、そのくらい夢物語だと思っていたかもしれません。
しかし現代では、遊びがどんどん仕事なっているので、
「よふきゆさん」や「陽気ぐらし」が、当時ほど夢物語ではなくなってきている事が、かなり興味深いことだと思いました。
おまけタイム
どーも!年明けから身体ボロボロの男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
実は年明けから身上が怒涛の勢いで押し寄せてきています、
・喉が潰れて声が出なくなる(1/1~1/6)
・水疱瘡(1/7~1/15)
・寝違えが5日経過しても治らず苦しむ(1/14~1/19)
・歯が二本欠ける(1/19~現在)
これだけ色々起こっているのに、流行りの病気にはなってません。
あと、これだけ神様から手を引かれていると、今年は何か僕の身に起るんじゃないかとワクワクしてます。
本当は、大きな事が起こる前の小さな事で心を変えないといけないのですが、この状況をワクワクしてしまってる自分に
「不謹慎だよな〜」
とか思っちゃってます。
今後さらに何かあれば、おまけタイムで報告するので楽しみにしといてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!
サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!