217.「挨拶の仕方が悪い」深谷源次郎
はじめに
僕が飽きるまで、深谷源次郎氏(以下深谷氏)の逸話を取り上げるシリーズ第二弾です。
挨拶の仕方が悪い
挨拶の仕方が悪い
明治四十四年四月のことであったが、某教会長が上和の途、京都に立ち寄られた時である。教勢、部内教会の事情を種々尋ねられるまま、謙譲の心から、「身の不徳のため、御守護を頂くことが出来ません」と、申上げた。この言葉を聞かれるなり、怫然とされて、「その挨拶の仕方は違う!お前がお道を発展させようと思うから不徳というような言葉が出るのや、以後は改めなされ」と仰せになったので、思いがけぬお叱りの言葉に驚き、その心得を問うと、ニッコリ笑われて、「お陰様にてまた〳〵帰らせて頂きましたというのである。何をさして頂くのも皆々神様、御教祖様のお陰ということを片時も忘れず、喜んで勤めさせて頂くから御守護を下さる。それを兎もすれば忘れ、我がすると思うから不足心も湧き、案じ心が出てくる。この二つの心を去り、神様、御教祖様の御守護を日々喜んで通るならば、末では必ず結構な御守護を頂ける」と懇々とお諭しになった。
出典:初代会長様 天理教河原町大教会史料集成部
この逸話を読んで、思い浮かべる先人の言葉があります。
細かな言葉使いと、誰の言葉だったかド忘れてしまったのですが、その内容は、
「自分のおさづけが効かないと思うことが、一番のこうまん(傲慢)である」
と言ったものです。
※誰の言葉で、何処に載ってるか知ってる方は教えて下さい。(切実)
自分のおさづけが効かないと思うことはつまり、
「神様の御守護<自分の考え」
になってしまっている事になります。
神様より自分の考えを重視してしまうようでは、確かに「一番こうまん(傲慢)な心」になっていると言っても過言ではないかもしれません。
冒頭紹介した深谷氏の逸話では、某教会長が
「身の不徳のため、御守護を頂くことが出来ません」
と答えたところを深谷氏は叱りました。
「お前がお道を発展させようと思うから不徳というような言葉が出るのや」
と言われている通り、自分の力で現状をどうにかしようと考えることが、
「神様の御守護<自分の力(想い)」
になっているのだと思います。
しかし、おそらくここで叱られた一番の原因は別にあって、その原因は「暗いこと」だと思います。
深谷氏は「結構源さん」という異名を持つ程、何が起きても常に「結構、結構」と通られており
「陽気に神が入り込む」
と、いつも言われていたそうです。
そう考えると、
「身の不徳のため、御守護を頂くことが出来ません」
この言葉には、陽気な雰囲気は微塵もありません。
このような暗い心では、助かるものも助からないので深谷氏は叱られたのだと考えます。
「何をさして頂くのも皆々神様、御教祖様のお陰ということを片時も忘れず、喜んで勤めさせて頂くから御守護を下さる。」
こう言われているように、喜んで勤めるから御守護が頂けるのだと思います。
しかしこう考えると、見方によっては天理教は厳しい教えかもしれません。
叱られた教会長は謙譲(謙遜)の心から「御守護頂けません」と言ったそうですが、これが本当に御守護が頂けていない苦しい状態でも、喜ばないといけないからです。
苦しい中を歯を食いしばって、耐え忍んでいても、御守護は頂けません。
自分の心が陽気になることが、まず始めに必要です。
「苦しいのに陽気になるなんて無理じゃないか」
と思われる方もいるかもしれません。
そうなんです。
何も無しで陽気になることなどできません。
陽気になる為には、陽気になる為の元が必要になります。
その元が天理教の教えなんです。
天理教の教えを知り、起こること全ては、神様が「陽気ぐらし」の為に手を引いて下さっているのだと心から納得できたなら、第三者から見ればどれだけ苦しい状況でも、陽気になることができると思います。
このいつでも陽気な状態が、
究極の心の状態「たんのう」
であると僕は理解しています。
「たんのう」の詳しい説明はこちら
まさに、深谷氏は「たんのう」の体現者だったのではないかと思っているところなので、現在どハマりしているということなのです。( ˘ω˘ )
おまけタイム
どーも!天理時報に載った男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
天理時報に載ったので更新しなくてはと思い、久しぶりに日付を越えてから記事を書いています。
とりあえず今のところ、天理時報に載ったからといって、アクセスが増えたとかいうことは一ミリもございません泣
ただ、前からnoteを読んで下さっている方々からは、色んなところでメッセージを頂き有難い限りです(^-^)
今後もこれ以上更新頻度を落とさないように頑張っていきたいと思いますので、
「仕方ないから読んでやるか」
ぐらいの気持ちで読んでいただけたらと思います。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!