137.教祖が人々に寿命を与えた話し
はじめに
高野友治氏が執筆された、「教祖余話」には、稿本天理教教祖伝や稿本天理教教組伝逸話篇にも出てこないような、教祖の御話しがたくさん載っています。
その中で僕が面白いなーと感じた御話しをピックアップして紹介したいと思います。
教祖が人々に寿命を与えた話し
教祖が人々に対して「命をあげるで」といって長生き出来るよう寿命をお与えになった話しがいくつもあります。
早速紹介させていただきます。
教祖の長女おまささんの話し
おまさのお嫁入りのときには、父はなくなり、母屋もなくなっていました。だから、そのお嫁入りは、こやけの嫁入りのようだつたと書かれてあります。
こやけというのは貧しい人というほどの意味だと思います。
そのとき、教祖は、
「あんたには、何もあげるものがないなあ」
とおっしゃったそうです。そして、
「そのかわり、命だけは、たんとあげるで」
とおっしゃったと伝えられています。
教祖のお言葉どおり、おまきが、教祖の周囲の人々のなかで一番長く生きておられます。おまさは、明治二十八年(一八九五)まで、生きて天理教の隆盛になった姿をみて、なくなっておられます。そういう意味で、一番幸せな人じゃなかったかと思うのです。
奈良監獄署途中の宿屋のおかみさんの話し
教祖が奈良の監獄へおいでになったとき、人力車に乗って行かれたのですが、天理から奈良に向かうと、奈良の猿沢の池の東側へ出るのです。そこに、五十二段といわれる石段があります。これは人力車ではのぼれません。そこでその東側に俥が通れる坂道があります。相当きつい坂道ですが、そこを人力車でのぼられたのです。その坂道を上がると、いまの三条通りに出るのです。のぼり切ったところに大仏屋といったと思いますが宿屋があった。いつも教祖がお通りになるものですから、宿屋のおかみさんも仲よしになって、人力車夫が疲れて、人力車夫にも、教祖にも、
「まあお茶など一杯あがってください」
と言って、お茶を出してくれたそうです。教祖はそれをおよろこびになり、いつもその宿屋の前に出られると、
「また来たで」
とおっしゃったそうです。それほど、親しくなっていました。そして、あるとき、教祖が、
「あんたなあ、いつもわしによう心つけてくれてありがとう。私は、何もお礼することができないけれども、そのかわりになあ、あんたには命だけはたんとあげるで」
とおっしゃったそうです。この人は、百十歳くらいまで生きたそうです。奈良で一番長生きになって、なくなったと聞いています。そのまた娘さんも、百いくつでなくなっているそうです。
石川周蔵の話し
これは、教祖が奈良の監獄にご苦労になっていたときのお話です。看守に石川周蔵という人がいました。
教祖は、生水がほしい、とおっしゃっていたそうです。
当時、コレラの流行などあって、とくに集団生活の監獄では生水を飲まさんことになっており、水はいったん沸かした水を用いていたそうです。
それで、石川周蔵は、洗面の水といって生水を運んで、教祖に差しあげていたそうです。
教祖は大へんおよろこびになって、
「私はここから南二里のとこのもんや、あんた、遊びにおいでや」
と仰せられたそうです。そして、
「いろいろお世話になったが、何もあげるものがない。それでな、命だけはたくさんあげますで」
とおっしゃったそうです。
石川周蔵は、そのあと、軍隊に召集され、台湾の暴動の鎮圧に出かけたそうです。だいぶ激しい戦いで、彼の周囲の兵隊が次つぎに倒れて、最後には自分一人だけ生き残ったのだそうです。
それから日本に帰ってきて、いろいろ仕事にたずさわったが、何ベんも、自分一人だけ生き残るという事態に出遇い、不思議だ、不思議だと思っていたが、ふと、教祖のことを思い出し、これは、天理さんのお婆さんのお守りくださっているおかげであろうかと思ったそうです。それで、九十七歳かの年に、近くの教会長さんに連れられておぢばにお詣りに来られました。
「何もあげるものがない」について考える
この三つの御話しを読んで見ると、一点気になるところがありました。
「命だけはたくさんあげる」と言われる前に、必ず「何もあげるものがない」「何もお礼することができない」と仰っているところです。
ここは大事なポイントだと思いましたので、ちょっと掘り下げて考えてみたいと思います。
お屋敷で教祖の元に寄り集まってくる人々は、
助けてもらうためであれ、
お礼のためであれ、
御話しを聞くためであれ、
教祖にお目通りすることが目的の人々です。
ですから、教祖があげるものは何も無いという人達はお屋敷には集まりません。
皆さん教祖から御話しや御守護等、何かを頂きに来ています。
そういった方々と比べると、ここに紹介した命を頂いた3名とは何が違うのでしょうか?
おまささんは教祖の実子ですから、教祖から何か貰うのが目的でお屋敷に住んでいたわけではありません。
嫁入り道具を持たせてあげられなかったからという理由から命を頂いたということなので、別枠で考えたいと思います。
では、宿屋であったり、監獄署であったりお屋敷以外の場所で、教祖から命を頂いた人達の場合を考えていきたいと思います。
そもそも、教祖は、彼らにお礼として渡せるものは、本当に何もなかったのでしょうか?
「教え」というこの世の真実を知れば、結構な人生が送れるわけですから、教祖のお礼は、「御話し」でも良かったはずです。
お屋敷には、その「御話し」を聞きたいという人々が大勢集まるくらい価値があるです。
しかし、教祖は「御話し」をなさらなかった。
当時、「御話し」は日が落ちてから、どうしても聞きたい者のみ一人で聞きに来なさい。というような状況だったとお聞かせ頂いています。
求めた者だけが聞くことのできる教えだったのです。
宿屋のおかみも監獄署の看守も、そういった「御話し」は求めていませんでした。
本人達が求めていないものを渡しても、ありがた迷惑なだけでお礼にはならないかと思います。
むしろ彼等は、「月日のやしろ」としての教祖ではなく、人間中山みきに対して親切にされたのだと思いました。
当時教祖は生き神様と言われておりましたから、人として親切にされることなど、滅多に無かったかと思われます。
そのような方達に何も渡すものが無いから、教祖は「命」をお与えになったのではないでしょうか。
そうなると、ここでもう一つ疑問が残ります。
それは、
「命を与えてまでお返しをする必要があったのか」
という問題です。
僕達の感覚からすれば、お礼の言葉だけで済ましても良いように思います。
しかし、教祖はお礼だけで済まさずお返しをしました。
この時に思い浮かぶ、おふでさきがあります。
人のもの かりたるならば りがいるで
はやくへんさい れいをいうなり 3-28
今回の御話しでは、教祖は一見「もの」を受け取ったわけでもなければ、「借りた」わけでも無いように思います。
しかし、「恩返し」と言う言葉があるように、「恩」も人のものでありますし、返すことが出来るもの、つまり、人から借りているものとも解釈できると思うのです。
人の恩 受けたるならば 理がいるで
早く返済 礼を言うなり
「第3号28」の御歌には、このような意味合いも含まれていると解釈しても良いのではないかと思いました。
ですから教祖は、受けた恩を返すべく、「命」をお与えになったのではないかと推察します。
最初は「教祖が寿命を与えた話し」を紹介して終わるつもりでしたが、流れのまま思いついたことを書いてしまいました。
あくまで思案の一つとして受け取っていただけたらと思います。
おまけタイム
本日は、僕の今思ってることを、吐き出すためだけのおまけタイムですので、ご了承ください。
読んで頂かなくても大丈夫なやつです。
本日は、辛い、本当に辛い出来事がありました。
神様になんとか助けていただけないかとお願いしました。
こんな時に出来ることって、お願いのおつとめとお供えと心定めぐらいしかありません。
自分の無力さを感じました。
天の貯金とはうまく言ったもので、おろしたい時に溜まってないと、おろせないんですね。
そして、おろしたい時は突然やってくるんですね。
つい数分前までは、夢にも思ってなかったことが起こる可能性があるんだと痛感しました。
僕は今まで、いざと言うときに神様にお願い出来るよう、天に貯金をしていたのだろうかと、考えさせられました。
昨年母親が突然出直した時には、こんなことは考えませんでしたが、今回は本当に考えさせられました。
「備えあれば憂いなし」
の「備え」とは、天の貯金だったのかとも痛感しました。
なんも気づいてあげれんくてごめん
ほな
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