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218.「いんねん」は未来7割、過去3割 #1
はじめに
今回のタイトルに書いたように、
「『いんねん』は未来7割、過去3割」
という類いの文言を3ヶ月ほど前に、
「教祖余話 高野友治」の中で見つけました。
以下がその本文です。
「成るいんねん」というのは、過去でこうしたから現在がこうなっている、という考え方である。「為すいんねん」というのは、現在どうであろうと、未来に向かってつくってゆくいんねんのことである。
人間の行為は二つのいんねんで動かされている。過去から押されているいんねんと、未来から引かれているいんねんである。その割合はどうかというと、過去からの力が三、未来からの力が七分だと仰せられている。
出典:教祖余話
これは面白い!と思ったのですが、肝心のおさしづを読んで見ると、僕にはどう読んだら未来と過去の話になるのか読み取れませんでした(泣)
以下がそのおさしづの抜粋です
(前略)身上〳〵よぎなく事情から尋ねる。皆んな事情、十のものなら七つまで道の理に掛かる。なれど、三つだけは取って、後七つは遠い影のように思うて居る。(後略)
明治30年2月1日
当時は、おさしづが解釈出来ず、このことを記事にするのは断念したのですが、先日、聡明な友人がこのことについて詳しく解説している文献を探してくれたので、今回ようやく、念願だった「いんねんは未来7割、過去3割」の記事を書こうと思います。
(バンザーイ!!)
世界7割、個人3割
まずは、「おさしづ物語 高野友治著作集 別巻」に出てくる解説の一部を引用したいと思います。
この度は松村吉太郎も風邪を引いていました。このときの神様のお言葉には、「十のものなら七つまで道の理に掛かる」とおっしゃっています。身上とか事情とかの問題を十のものとすれば、その七分-七割-七〇パーセントまでは、天理教全体の問題、神様の問題なのだ、そして三〇パーセントは個人の心得、通り方の問題である。それなのに、人間の方は、身上事情というと、自分の心得違いのことばかりを考えて、神の思いがどこにあるかということを考えようとしない。遠い影のように思っている。それではどうもならん、とおしゃっています。
(中略)
たしかに、身上事情は神のメッセージだと思います。
個人のことは三分だとおっしゃいます。
おさしづ物語 高野友治著作集 別巻
この説明では、世界のこと7割、個人のこと3割だということは説明されていますが、未来や過去については語られていません。
そのため「教祖余話」で語られている、
過去から押されているいんねんと、未来から引かれているいんねんである。
ということには直接繋がりません。
ですから「おさしづ物語 高野友治著作集 別巻」だけでは、明治30年2月1日おさしづの「高野解釈」を十分に理解することができないということになります。
未来7割、過去3割
実は、このことについて詳しく書いてあるのが
「ひがし通信別冊3 高野友治こぼれ咄 おさしづ夜話」
という文献です。
(こんなレアな文献を、よく友人は探してくれました… (感激))
長くなりますが、とても大切な部分だと思いますので、沢山引用したいと思います。
これは史実的にいうなら、個人の問題でなく、教会運営の問題が七分かかっていることになるのであろうが、史実のもっと奥にある神意を考えてみるに、又人間一般の問題として考えてみるに、事情身上というても「どういうことが違う、こういうことが違う」ということ、はそれは十のものならば三分、あと七分は神の思惑のかかる処と考えられるのである。
それではどんな神の思惑であるかと考えるに、その事情身上を動機として、人間をより高くより良く成人させてやりたいという思惑であろうと思う。神様は「子供の出世待ちかねる神の思惑こればかりなり」と仰せられているそのことから察せられる。確かに事情身上というものは何の因縁何の埃というだけでは解決がつかぬ場合が多少あると思う。それを無理に理屈をつけようとするところに、明るい道が暗い道のごとく感ぜられる理由があろうと思う。我々は「十のものなら七ッまでは道の理にかかる」という。その道の理を研究すべきであろうと思う。それを従来は十のうち三分である点ばかりに浮身をやつしておった感が強いのである。探せば埃のないものはないのである。それも無理に探し出して何が悪い、かが悪いといえば、その人の心を暗くする。それより神の慈悲を説き、神の思惑を説き、その事情身上にこもる親なる神の温かく、広く、大きく深い思惑を説くことが肝心のことと思う。神の思惑は、これから良く成人してくれよという願いがある。教祖伝を調べていて、教祖のお助け、教祖のおさとしというものに触れる場合もあったが、その場合、たとえば松村さく様、山本利三郎先生、増井りん先生の場合、どういう埃でこの病にかかったとはいわれていない。勿論その他の場合で因縁をさとされたと思われる場合もある。しかし、それにしても総じて前途に希望を持たされている。我々が生きるのは今生きているのであり、将来に生きるのである。過去に逆戻りして生きるのではない。過去は現在及び将来の生き方をよりよくする意味において意義があるものと思う。
事情身上は人間の立場からみると過去の反省となりがちであるが。神様の立場においては、現在及び将来に対する「道をせ」であり「手引」であるように思われるのである。それも三分と七分といわれているようである。
(中略)
小さく狭い人間的な問題でなく。(それは勿論あることはあるであろうが)もっと〳〵大きく広く永い神の思惑が作用していることを考えてみてもらいたい、と仰せられているように感ぜられるのである。
(昔の文なので少しだけ読みにくいですが、個人的には神解釈だと思ってますので、読み飛ばした方も頑張って読んで頂きたいです)
高野氏の解釈は、明るく将来に希望が持てる感じがして、まさに陽気ぐらしという感じがします。
「おさしづ物語」と「おさしづ夜話」の解説が素晴らしいため、特に僕が説明を付け加える必要も無いと思いますので、ここからは僕の思ったことを述べていきたいと思います。
元のいんねん7割 個人のいんねん3割
まずは、おさしづにある「十のものなら七つまで道の理に掛かる。」
この7割(七つ)の部分を見ていきます。
神様の立場においては、現在及び将来に対する「道をせ」であり「手引」であるように思われるのである。
と「おさしづ夜話」の本文にありますが、
道をせ(道寄せ)とは、どんな道に寄せられているのか?
神様はどういった方向に手引きされているのか?
というところまで突っ込んで考えると、
「神様が、陽気ぐらし世界へと人間の手を引いて下さっている。」
という「元のいんねん」へと繋がってきます。
つまり、この7割とは「元のいんねん」であることが見えてきます。
次に「なれど、三つだけは取って」
この3割(三つ)の部分を見ていきます。
そして三〇パーセントは個人の心得、通り方の問題である。それなのに、人間の方は、身上事情というと、自分の心得違いのことばかりを考えて、神の思いがどこにあるかということを考えようとしない。
と「おさしづ物語」の本文で説明されています。
ですから、3割は「個人のいんねん」ということになります。
つまり、身上事情について悟っていく際に
元のいんねん7割
個人のいんねん3割
の塩梅で考えることは、案外有用ではないかと個人的に思いました。
その有用性についてもう少し深掘りして、身上事情の「種類・原因」と「目的」に大別して見ていこうと思うのですが、引用が多かった為、記事が結構長くなってしまいそうなので、本日は一旦ここで切ります。
To be continued
おまけタイム
どーも!アルコールに困らない男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
遅れまして、みなさん、あけましておめでとうございます。
年末年始はいかがお過ごしだったでしょうか?
僕(&嫁)は、年末年始はとても忙しく、ゆっくりする時間が全然ありませんでした。
ある意味充実した年末年始だったとも言えるかと思います( ˘ω˘ )
(ラジオの更新も出来きなかったので、追々更新していきます)
さて、この年始に嫁さんの実家で「有名だけど珍しいお酒」をご馳走になりました。
それがこちら
燗専用の獺祭です。
(すでに飲まれてる方、流石です!)
正直燗専用の獺祭ってどうなんだろう?と疑問に思ってしまいましたが、
とりあえず、まずはそのまま普通に飲んでみます。
…
うん!美味しい獺祭です。
では次に熱燗にして飲んでみます。
…
…
…
なんじゃこりゃーーーーーー・:*+.\(( °ω° ))/.:+
熱燗特有の、カーッてくる感じが全然ありません!
熱燗なのにハイペースで飲めてしまう!
恐ろしいお酒です。熱燗でもこのクオリティとは…
さすが獺祭!そこにシビれる!あこがれるゥ!
(もっと飲ませて貰えば良かったと、帰ってから後悔してます)
気になる方は自分で購入して飲んで下さい!
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
ほな!
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