ウクライナ平和の鐘 082 唯仏与仏乃能究盡
■2022(令和4)年6月16日 082 唯仏与仏乃能究盡
(動画の3:02~8:51)
本日の「平和の鐘 鳴鐘の輪」。貪るな、怒るな。奪うな、殺すな。悪業を離れる言葉は分かりやすいけれど、それを魂の奥底に染み渡らせることはとても難しい。私たちはそのことを、自分の身の回りでも、今の戦争からも、観察できます。
合掌
お釈迦さまが修行を経て悟りを開かれ時、「自分の悟ったこの世界の理法(ダルマ)は、人に説明をしても分かってもらえないだろう」と思われました。
インドの神様である梵天がその様子をご覧になり「お釈迦様の悟りの内容は世の中のあらゆる生命を救う尊いものだ。このまま埋もれさせてはいけない」と思って、お釈迦様の前に現れて「お釈迦様、世の中にはあなたの教えを理解できる者もいる筈です。どうか教えを説いて下さい」と3回お願いをします。
お釈迦様は梵天の依頼を3回断った後、瞑想をして世の中の人々の様子を観察しました。その中で「確かに世の中には様々な人たちがいて、中には自分の教えを理解し納得して救われる人がいる。ならば私は教えよう」と気付き、お釈迦さまは教えを説き出されたと伝えられています。
仏様にしか分からない難しい悟りの内容、法華経ではこれを「唯仏与仏乃能究尽」と表現しています。ただ仏様同士でのみお互いの悟りの内容を理解し合える、仏に至らない者には到底極め尽くすことができない、そのような経文です。
これまでこの「平和の鐘」のひとこと法話で、みなさんに仏様の教えをいろいろご紹介してきました。「難しいって言うけど、シンプルでわかりやすいけどなぁ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、ここでいう「難しい」は、そういう意味ではありません。哲学的に難解とか、膨大な知識を元に考え抜かなければ分からないという意味(教学的にはそのような面も確かにありますが)でいわれているのではないのです。自分自身の魂の底から世の中のダルマを受け入れる、そのような状態になることが難しいんだ、ということなのです。
例えば「貪り(貪欲)は悪業となって自分を苦しめる」と、私たちは頭では理解できます。でも日頃の生活の中で、貪りの心を捨てられるか。難しいですね。怒り(瞋恚)はどうでしょう。誰かのちょっとした行動がムカつく事、日常的にありませんか? そう、怒りも私たちは抑えられません。私たちがお釈迦様の教えを頭で「ああ、そうかも」と思っても、それが魂の心底に染み付いて、日々の一挙手一投足までダルマに従った生き方が即座にできるわけではない。これが「難しい」のです。
他国に武力侵攻してはならない、みんなが知っていることです。でもロシアは侵攻しました。戦争であっても民間人を意図的に殺してはならない、虐殺してはならない。みんながルールとしてそれを理解していますし、人道上もそうだと思っています。でもロシアは、大勢の民間人を意図的に殺しているようです。嘘をついてはいけない、誰もがそうだと思っています。しかしロシアは「民間人を殺しているのはウクライナ軍だ」と荒唐無稽な嘘を言っています。それは、周囲を冷静に説得するためではありません。嘘でも大声で言い続ければ周囲を従わせることができる、そのような発想です。そのような行動は結局は信頼を失い自分の不利益になるということ、そして、人と人とが共に暮らす社会の中でそのようなことをしてはいけないということを、多くの人が分かっているはずです。
分かっていてもできない。違うことをやる。悪業を積む。そのようなどうしようもない人間という存在の姿を、今、私たちは目の当たりにしています。
仏様の教えは、ある意味では極めてシンプルです。しかし、それを私たち自身の魂に染み込ませて、そのような生き方をすることは、決して容易ではありません。それでも、その道の先にしか、私たちの幸福はないのです。
悪業は苦しみを生む、安らかに生きるためには善業を積む必要がある。そのシンプルな理法に気付き、少しずつでもそのような生き方に変わっていくこと。そして、それを可能にする社会と世界を作ることが、私たちの目指すべき道です。。
再拝