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ウクライナ平和の鐘 045 縁なき衆生は度し難し

https://youtu.be/z6yptkQ8Fu4

■2022(令和4)年5月4日 045 縁なき衆生は度し難し
(動画の3:08~6:31)

本日の「平和の鐘 鳴鐘の輪」。誰でも仏になれるけれど、まず縁(条件)が整い仏様の声に耳を傾け自らの業を改めなければ、苦しみは止まないのです。ロシアに縁が整い、他国侵攻の悪業を改めてくれたなら、世界の今の苦しみは止むというのに。

合掌

「縁なき衆生は度し難し」という成句があります。

「度す」という言葉は渡るという意味を持ちます。「川を渡る」という時の「渡る」です。川にはこちら側の岸(此岸)と向こう側の岸(彼岸)があります。こちら側の岸は、私たち人間が生きて暮らしている、様々に心が波立ち苦しみに満ちた迷いの世界。そして川を渡った向こう側は、仏様の境地、心穏やかに安らかに生きることのできる苦しみのない世界です。此岸=迷いの世界から彼岸=仏様の世界へ人を渡らせることを「度す」と言います。

 どのような人も、仏になることができます。けれども大事なのは条件です。仏様の教えに素直に耳を傾けることができるか。心から信じて修行できるか。修行を貫徹して川を渡ることができるか。そうした条件が、成仏のために必要なのです。

 どれだけお釈迦様が「この教えについてくれば、迷い苦しみを取り除いて安らかな世界に行けるぞ」 と言っても、私たちがそれに耳を傾けなければ、川を渡ることはできません。「自分の行いが苦しみの原因となる」そのような仏様の教えを疑っている間は、縁=条件が整っていない状況です。縁が整って耳が開けた時、「ああ、自分の行いが間違っていた」という反省が起こり、そこから慢心「自分は他の人より偉い、悟っている」という思いが消えます。そこに修行の環境が整って、貪欲・瞋恚・愚癡という根本的な煩悩が消えていき、川を渡ることができるのです。それを言い表したのが「縁なき衆生は度し難し」という言葉です。

 今ウクライナに攻め込んでいるロシア兵。彼らにもそのような縁が訪れることを祈ります。そうならない限り、苦しみはなくならないのですから。

再拝

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