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観光客が行かない幌加内(ほろかない)巡り

観光客が行かない幌加内町の旅  

               
人口1,362人 (令和3年4月30日現在) 

幌加内町

幌加内は日本一のそば名産地で知られている町です。

幌加内町役場では日本一が3つと言っていますが実は6つあります。

①朱鞠内湖の面積が人造湖では日本一の広さ。
②昭和53年に朱鞠内で記録した-41.2度は 日本最低気温。
 (公式記録対象外であったため明治35年の現上川町-41度が公式記録)
③日本一地価が安い「字朱鞠内6400-14」(2005年度)
④そば作付面積・収穫量ともに日本一。
⑤日本で一番細長い町、南北63km東西に約24km。
➅人口密度が日本一低い町(平成27年)。
 市町村全体で福島県南会津郡檜枝岐路村、奈良県吉野郡上北山村に次いで
 3番目になります。


幌加内の地形図

幌加内町は地形を理解しなければ迂闊なことがいえません。
町の中央を縦断する国道275号は、南は石狩沼田町から幌加内峠を越えて幌加内町に入り、市街地を北上し国道239号(士別市から苫前町間)との交差点(添牛内地区)が南北の分岐となります。
これは地形の特徴が変わり朱鞠内地区に入るためで、朱鞠内湖岸の丘陵地帯を眺めながら美深峠を越えて美深町に至ります。

かつて国道275号と平行して深名線(深川駅から名寄駅間)が通っていました。
幌加内町の旅は、この廃駅となった駅めぐりを楽しむのも良いでしょう。
添牛内地区にも「添牛内駅」が保存されており廃線となった線路が一部保存されているので、駅舎や線路を辿りカメラを構える人が多いのです。

旧深名線ほろかない駅


古山高麗雄「オホーツクの海が見たくて」ー 幌加内町
    
古山 高麗雄(ふるやま こまお)
    1920年(大正9年)- 2002年(平成14年)
    小説家、随筆家、編集者。芥川賞作家。

「昭和49年の4月下旬、飛行機で東京から札幌へ。残雪は、汽車が北上するにつれて量を増す。深川で降りて深名線に乗り換える。鄙びた鉄道で、沿線の子供たちはみな、深川か名寄の高校に列車通学しているのではないかと思われた。ガイドブックを見ると、この沿線で最も大きな町らしい幌加内町の人口が6,962人である。
誠和温泉という無人駅で降りて、駅前の旅館で泊まることにした。
ほかに建物といえば、線路をへだてて二軒ばかりの農家らしいのが見えるだけであった。東京ではもう桜の季節が過ぎているが、時間が逆もどりしたように一面の雪である。部屋の窓の下には水量の豊かな雨竜川が流れていた。

翌朝、8時21分の気動車に乗る。名寄に出るには朱鞠内で乗り換えなければならない。乗り換えの時間が20分ほどあったので、駅から出て、ゴム長を売っている店をさがしてみた。朱鞠内は、深名線では小さい村ではないのだろうが、しかし、数えるほどの家屋が駅の前に群がっているだけだった。

ふたたび深名線に乗り、名寄に出て、稚内に向かった」

オホーツクの海が見たくて


国道275号を今度は美深町の北から南下すると朱鞠内湖に山が連なります。これが始まりで見ごたえのある山々が幌加内には23山あります。
平地に入ると両側10キロ先の右側の奥には増毛山脈が連なり、左には天塩山地が連なります。この地形は石狩川支流の雨竜川流域が札幌からの石狩国最北部となり、南部には石狩平野が開け三方は山岳となっています。

幌加内町で一番高い山はピッシリ山1,031m(アイヌ語ピ・シルで「石・山」の意味)で、天塩山地が朱鞠内湖の西部、羽幌町・遠別町・幌加内町の境界に聳え、更に名寄市、士別市、和寒町、旭川市と東側を取り巻くように南下し山脈が連なります。

日本海側は増毛町、北竜町、雨竜町、新十津川町にまたがる増毛町の主峰暑寒別岳1,492mが聳え、群別岳(1,376m)・南暑寒岳(1,296m)・雄冬岳(1,198m)と壁になっています。
ようするに山に囲まれて他の町から迂闊に近づくことができません。


「ほろかない」
の由来となる幌加内川は、町内を南流する「雨竜川本流の方向と逆行する支流の意味」で、石狩川水系の雨竜川など21の河川が平地を流れており、更に山岳地帯にふさわしく滝は4か所あります。
北部には16年の歳月をかけて昭和18年に完成した朱鞠内湖があります。(昭和49年に朱鞠内道立自然公園に指定)


朱鞠内湖


町民は地形を活かして、他に頼らず産業を育てる必要が生まれたといえます。町を訪れるには南北は国道275号、留萌地区からの国道239号しかありません。東からは和寒町からの道道48号で和寒峠を越えて町に入ります。後は旭川市の江丹別道道72号です。ようするに簡単に近づくことができません。

町のはじまり                                                             

明治30年から国有未開地の貸し付けが開始され移住してきたのは吉田三郎でした。当時、密林地帯で刈り分け道があるだけでしたが4年後に札幌農学校が維持資金にあてるため演習林が誕生。
その後、明治44年に御料地の中の農耕適地を区画し、福島・岐阜県などから移住者が次々と入地し、大正7年には戸数805戸4670人。
翌7年に雨竜郡上北竜村(現沼田町)から分村、雨竜郡幌加内村となり5年後の大正12年には二級町村制、幌加内村がスタートしました。

第一次大戦で青エンドウ・澱粉景気に湧き、澱粉工場が乱立した時代もありました。また大正~昭和初期に砂金・砂白金掘り師が入り込み、年産420トンの時代もありましたが閉山しています。
しかし、切り開いた開墾地は水田が主流でした。原野は川の氾濫が多く入植者を苦しめてきましたが、雨竜川下流に鷹泊ダム、上流の町内に雨竜ダムが竣工してから水害が少なくなり安定してきます。

町は空知支庁の管轄でしたが、空知は産炭地の地域で、隣接する上川支庁管内との結びつきが強いことから、2010年(平成22年)4月1日に現在の上川総合振興局に管轄を移動しました。
そのため国政選挙地区が変わるという異例の主張を行っています。

幌加内ソバ                                                 

一面蕎麦畑

主産業は雨竜川中流域の米作と上流域の畑作・酪農を主としていました。
1970年(昭和45年)、国策で米の生産調整で基幹産業である農業は一大決心をします。
それは米作を一切止めて「米からそば栽培」へと転作の決意でした。
これは町の基幹産業である「米」を全農家が「そば」に変えるということです。幌加内町の冷涼な気候、昼夜の寒暖差、そして夜の冷え込みと日中の温度差を和らげる朝霧の発生等がそば栽培に適していたことと、2~3ヶ月の短い生育期間で収穫できることからでした。
以来、そば面積は増加を続け、10年後の昭和55年には作付面積が日本一となり、生産量ともに「そば日本一の生産地」となりました。

国道275号を南下して行くと一面がソバ畑、両側が山に囲まれ「幌加内は2度雪が降る」とも言われ、まさに「夏の雪景色」が広がります。開花時期には、 そばの花周遊レンタサイクル もあります。
このソバ畑を見るために4箇所のビューポイントが用意されています。日本一を支えるべく「そば日本一の館」と名付けたそば乾燥調整施設が2000年に完成。自然乾燥に近い除湿マドラ通風乾燥方式で高品質なそばを作り出しています。

<特産品>は、ほろかないそば(生麺、半生麺、乾麺、そば粉)、そば関連商品(そば焼酎、そばせんべい、そばかりんとう など)です。
<そば道場> 10台のそば打ち台を完備し、道場手打ちレシピに基づく二八そば(幌加内産そば粉400g・小麦粉100g) 、指導者が伝授。打ったそば(5人前)は持ち帰りできます。

朱鞠内湖                                     


朱鞠内湖

昭和40年前後の映像「失われた風景・名寄編」に朱鞠内湖がありました。

名寄市の若者がサイクリングで出かけ、釣りやボート、遊覧船で楽しみ昼食はジンギスカンを囲む行楽の映像でした。
朱鞠内湖一帯は、自然保護上の厳しい規制を受けており、今もなお自然の原型をとどめています。大小13の島々が浮かぶ湖は四季折々の顔を見せます。


イトウ


北欧のフィヨルドを思わせる入り組んだ地形が湖の生物や深い原生林を育てており、国内最大の淡水魚「イトウ」が生息しています。
トラウトのシーズンには、道内外、時には海外からも釣り客が訪れ、冬にはワカサギ釣りで賑わいを見せます。
周辺に宿泊施設やキャンプ場が整備されており、夏にはステージショー、もちまき、お楽しみ抽選会、 湖上花火大会 などのイベントがあります。




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