蝦夷の時代21 松前藩主四代目
松前藩主四代目 松前高広(たかひろ)
1648年(慶安元年) – 1665年(寛文5年) 在位17年 享年23
徳川家光~家綱の時代
寛永20年(1643年)、三代藩主・松前氏広の長男として蝦夷福山館にて誕生。慶安元年(1648年)、父の死去により跡を継ぐ。
しかし僅か6歳のため、藩政は高祖父の松前慶広の甥・蛎崎友広や蠣崎利広らによって執行されます。
承応2年(1653年)、身体が弱かったのでしょう函館の「湯の川温泉」にて湯治を行います。
寛文5年(1665年)7月5日に23歳で死去。
跡を長男・矩広が継ぎます。
蝦夷におけるアイヌ民族の勢力
高広の時代はアイヌ民族同士の抗争が起きており、松前藩は仲介に苦慮していました。
アイヌの人たちは和人との交易が始まる前から北方民族と交易を行っていました。ところが、15世紀以降和人が渡島半島南部に居住してからは、和人との接触が明らかに強くなります。当然、アイヌ社会に変化が起きてきました。
特に、松前藩になってからは組織対組織の取引となるため、小さなコタンが集まり広範囲集団となりアイヌ支配圏が生まれることとなりました。
当然、集団の中では交易の利益が一部に集中するようになってきます。
更に、日常の生活から生産用具にいたるまで和人の交易に依存するようになってきました。
松前藩四代目高広(1648年~1665年)の時代には、蝦夷地で5グループくらいのアイヌ支配圏がありました。
承応(1652年から1655年)年代に、5大勢力のメナシクルとハエクルが漁猟圏で抗争が激化したため、承応4年/明暦元年(1655年)、松前藩が仲介に入り講和させます。
しかし、この二大勢力は寛文年間(1661年から1673年)には再び抗争が激化します。