観光客が行かない「わっさむ」巡り
「和寒町」 人口2,972人(2023年5 月末)
名寄盆地の最南端、塩狩峠の麓に広がる和寒町は、明治32年11月鉄道の開通に伴い本州各地から移住してきた人達により、原始林に開拓の鍬がおろされました。
基幹産業である農業では、水稲を主要作物に作付面積日本一を誇る南瓜や、雪の下で保存することによっておいしさを増した越冬キャベツが有名で全国で広く知られています。
和寒山(わっさむざん)
和寒山は名の通り和寒町にあり標高740mの山です。
登ったことはありませんが、頂上からは三浦綾子の小説「塩狩峠」を眼下に納めることが出来るといいます。
頂上にはマイクロ波の反射板が設置されており、国道40号線からこの反射板を見ることができるといわれますが、塩狩峠で眺めてみましたが、どの山なのかさっぱりわかりませんでした。
和寒町のはじまり
1965年(昭和40年)、和寒町が開基65周年・開村50年になる年にテレビで道内に放映された映像を見ました。
開基65年とは、1900年(明治33年)に秋田県人菊池伊七が和人として和寒に定住者した年でした。
前年の1899年に鉄道(現在の宗谷線)が和寒まで開通していました。
開村50年とは、1915年(大正4年)のことで、剣淵村(現在の剣淵町)から分立し村が誕生した年をいいます。因みに、和寒町になったのは1952年(昭和27年)です。
和寒町の失われた風景
映像は開基・開村を祝って和寒町民は一大イベントを行っていました。
街中を子どもたちの鼓笛隊を先頭に歩き回ります。鼓笛隊の風景は、今は見ることがありませんが私の年代には懐かしてものです。
平成の時代は、合併が相次ぎます。北海道は212の市町村がありましたが合併で33の町村が消えました。
大正4年、剣淵から独立した「和寒村」は大変なお祝いの映像です。開拓で入った集落が村として独立するのは入植した人たちの悲願でもあったということが良くわかります。今は町中の人たちが心を一つにして祝うことなどありません。この映像を見ると「ふるさと」に対する思いを考えさせられます。
農業や副業
和寒町の成長の歴史が映されています。
農業が主体ですが、副業としていた家畜産業は今も参考になるでしょう。
また、植林としてのカラ松の苗づくりなども興味深いものがあります。和寒町が林業の町として「割ばし」や木工工場の誘致なども積極的だったことがわかりました。
塩狩温泉
現在の塩狩峠は三浦綾子の住まいであった旭川の建物を移築して、小説「塩狩峠」の記念館になっていますが、56年前は観光産業として塩狩温泉がありました。
かつて、私が国道40号線を旭川に向けて通っていたころを思い出すと、ユースホステルと温泉があったような記憶があります。
映像では観光施設としての「塩狩温泉」が大繁盛です。娯楽や旅行が少なかった時代に、この温泉旅館は貴重な行楽の場所だったのでしょう。
和寒町民逸話集
「凍裂のひびき」は平成五年に、和寒町教育委員会から発行された本です。
町の歩みは、町史ほか各種記念誌などにまとめていますが、先人個々の苦難や努力、喜びや悲しみになどを記述した集録は中々お目にかかれません。
先人の「よもやま話」を逸話集として、今、残さなければ語ってくれる人を失い、それを語り継ぐ人も失ってしまうという思いで作られた本です。
目次を見ると、109人の人たちが語った「和寒の物語」でした。
私が知る限り、これほど多くの人たちが語った村史はありません。
109人の一人「板垣弥之助」(74歳)の文章の中からを抜粋で紹介します。
「私は十三人の兄弟の十二番目で、今は二男四女が存命中だが、私のすぐ上の兄の板垣武四は皆さんの温かいご声援を得て、昭和46年から平成3年までの20年間札幌市長を勤めさせて頂いた。(中略)
私が学校へ上がる前の年に二・三人で駅(和寒駅)のそばの空地で遊んでいて、畑のこえだめに落ちた。体中うんこだらけで、気が付くと皆散り散りにいなくなっている。近所の人は私のことを指差しながら笑っている。(中略)やっとの思いでわが家へたどりつくと、母は黙って私を川に連れていき、素っ裸にして川の中へ入れた。母は「臭い、臭い」と言いながら、まるで汚れた鍋でも洗うように、たわしで私の体をごしごしとこすった。それでも少しも痛いとは思わなかった。それどころか、私は母に体を洗ってもらいながら、なぜか不覚にも涙が溢れてきて、それをぬぐいもせずにしばしば甘酸っぱい快感に浸っていた。(中略)そんな思い出のある川が、今見るとどこにも無い、完全に姿を消してしまっている。あれから70年近くも経っているのだから、変わるのも無理はない。」
元札幌市長「板垣武四」については、「北海道ゆかりの人たち」で紹介しています。
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