蝦夷の時代40 シャクシャインの戦いーその後1
幕府(和人)とアイヌ民族との戦いは終わりましたが、蝦夷の地が平穏になるものではありませんでした。決着に至るには更に時間がかかります。
翌年寛文10年(1670)に松前藩は西蝦夷地に出兵します。
余市、利尻、宗谷の首長はすぐ服従しましたが、戦いに参加しなかった石狩のハウカセは松前とは関係ないと武装中立の姿勢をくずしませんでした。
「講和に出て殺されたシャクシャインの二の舞をするほど馬鹿ではない」
とも言い放します。
しかし、周囲の首長たちの説得でハウカセも妥協しました。
寛文11年(1671)には、藩兵が白老に出兵して日高、およびノサップ(根室)、厚岸、釧路のアイヌとも話し合い、寛文12年には松前泰広も国縫(クンヌイ)におもむいて、浦川(浦河)のアイヌとも話し合いました。
これで、ほぼ松前藩とアイヌとの関係は、一部の奥地をのぞいて解決したのですが、その条件は、松前藩に絶対服従を誓ったことです。
そのうえ、ツグナイとしてアイヌが出したものは、大部分武器で、アイヌは武力をも失ったのです。
この問題の解決には約4年かかりました。
この間、アイヌと松前藩つまり和人との交易は当然停止されていたのです。
蝦夷交易を財政の基礎としていた松前藩も、和人の商人も非常に困りました。
しかし、アイヌの方も狩猟や生活の多くを交易に頼っていたので、かれらも困りました。石狩のハウカセも最後には妥協したのは、交易の権利は松前藩に独占されていたからです。
シャクシャインの戦いは、アイヌ社会の変化と、交易などにみられる和人のごまかしや差別、そして、アイヌ民族の大集団化による不満をなんとか解決しようとしたものともいえます。
鉄砲と毒矢では所詮敗れる運命のもとでしたが、シャクシャインが立ちあがらざるをえなかったというところに悲劇的英雄ともいえます。
そしてまもなく、全道的にひろがる「場所請負制度」のもとで、アイヌは半奴隷的な運命に陥っていきます。