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蝦夷の時代3 松前藩の始祖も津軽を渡る

1454年、下北半島田名部の安東政李が渡島半島に渡ります。
この安東氏と行動を共にしていた蠣崎氏も渡るのですが、蠣崎氏のところに転がり込んでいた武田信広も共に渡ります。
この武田信広が江戸幕府松前藩の始祖といわれる人物で「夷酋列像」を描いた蠣崎波響(かきざきはきょう)の先祖にあたります。

夷酋列像・蠣崎波響作

鎌倉・室町時代の北海道は蝦夷島・蝦島・蝦夷カ千島と呼ばれていました。
アイヌ民族は蝦夷だけではなく、サハリン系の日本海側、千島系の太平洋側、東北の北部系などが点在していました。
この当時、蝦夷の渡島半島南部には混在した民族が住んでいたところに「渡党」という本州からの和人(日本人)が住むようになりました。

アイヌ民族は狩猟民族ですから、海や川などの近くで獣や鮭、山の穀物の豊富な場所を転々として暮らしていたのです。

渡党(日本人)が海峡を渡る人数が増えるに従い、現在の函館を中心に海岸沿いに和人集落が出来てきました。

人数が少ないうちは、アイヌに教えを乞いながら蝦夷の生活に馴染もうとしていましたが、人数が増えるに従い事態に変化がでてきました。


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