観光客が行かない雷電国道の旅-後篇
ピンノ岬
国道229号は地域によって様々な通称が付けられています。
寿都町の尻別川を渡り、蘭越町港町からピンノ岬を過ぎて岩内町敷島内の約15㎞間を通称雷電国道といいます。何故雷電かといえば、蘭越町と岩内町とにまたがる標高1211.3mの雷電山があるためです。
聳え立つ山が海岸から5㎞の至近距離にあり、海にそのまま落ち込んでいるため旧国道は危険極まりない獣道でもありました。現在の国道229号はトンネル開削技術も進歩し長い長いトンネルがつくられ安全ではありますが、絶景を拝めるのは一瞬でしかありません。
ピンノ岬は雷電トンネル(3,570m)で通過しており、雷電川の河口にあります。
雷電山の由来は、アイヌ語の枯れ木「ライ・ニ」や、低い出崎「ラエンルム」ですが、義経伝説の「来年くる」とメイコをだましてここから船出した伝説から「来年」が「雷電」となったという説もあります。奇岩として知られる雷電岬の刀掛岩は岬の先端部を指しています。
昭和43年に刀掛岬を雷電岬と改称し、雷電の近くの岬はピンノ岬、雷電岬と蘭越町港町との中間にある岬をセバチ鼻と改称されました。
カスペノ岬
温泉郷を過ぎると、すぐにカスペトンネル(全長638m)が見えてきます。このトンネル入口の左に「有島武郎文学碑」があります。
駐車場がありますが、刀掛トンネルを出てすぐにカスペトンネルが迫ってくるので、注意しなければ見逃します。
<有島武郎の文学碑>
有島の代表作「生まれ出づる悩み」の舞台が岩内です。
岩内に住む画家木田金次郎との出会いから友情にいたる私小説ですが、作中に雷電海岸の景色が書かれています。有島は岩内を訪ねていませんが、小説家は想像力豊かに表現するものです。碑に刻まれている内容が下記です。
雷電キャンプ場と梯子滝
カスペノ岬はカスペノトンネルで通過し、次に弁慶トンネルに入りますが、すぐに雷電トンネル(3,570m)に入ります。
入口手前に「敷島内・風の駐車場」があり、かつては雷電キャンプ場がありました。雷電トンネルは「ピンノ岬」までをバイパスで開削した長いトンネルです。
30年以上前になりますが、雷電キャンプ場を家族で訪れたことがありました。
この夏に通ってみると、当時訪れた時の海岸通りは閉鎖されておりましたが、丘を上がると聳え立つ山と絶景の日本海はそのままでした。
平成20年の雷電トンネル開通で、旧道はなくなり断崖を落下する梯子(はしご)滝・雲間の滝や弁慶の薪積(まきつみ)岩など,景勝海岸は見物不可になりました。
昭和36年9月3日、第45回直木賞作家の水上勉が岩内町に講演に訪れます。
出版社主催で青年会議所が誘致運動を展開。決め手となったのは岩内の画家木田金次郎でした。歓迎の花火が打ち上げられ雷電に向かいます。雷電梯子滝前の岩礁では焚火がたかれ、歓迎の席を設置、岩内町長、商工会会長、木田金次郎などが待ちわびていました。前日より海底に仕込んであった「うに」、「あわび」を客人の目の前で海中にもぐり次々と獲ってきては、肴にす る趣向は都会人に大好評となりました。
打ち寄せる波、雷電峠越えの路、朝日温泉や鰊番屋などと共に6年前(昭和29年)の洞爺丸台風と岩内大火の事などが話題となりました。
水上は「空はいつもこんな色なのか」「岩内で殺人事件はあるのか」などと質問をしていました。この夜の打ち上げパーティーの席上で求められるまま書かれた色紙には「雷電の懸嵐に花無く海寒し」「海寒く雷電岩に雁帰る」とあり、雷電の印象が強かったことがうかがえます。
また、「岩内にも殺す人が2~3人できたよ」とも話していたといいます。
わずか1日足らずの滞在時間で新しい作品の構想が浮かび上がり、一行は次の講演先「歌志内市」に向かいました。
4か月後、湯河原温泉の加満田旅館に閉じこもり、50日かけて「飢餓海峡」(初版本)が完成します。
ピンノ岬は雷電トンネルを抜けたところにあります。
岩内市街地にある「岩内郷土資料館」まではもうすぐです。