観光客が行かない岩内巡り・前編
岩内町 人口11,173人(2023年8月末)
野生ホップ発見の地(岩内町)
日本海にある小さな岩内町は歴史も古く興味深い話がたくさんある町です。
1823年、天保の大飢饉による避難民が続々と津軽海峡を渡ります。
これが定住し、ニシン漁の大きな労働力となり日本海の蝦夷地は有数の町となりました。岩内がたまり場となったのは、地理的に、ここから先に積丹半島の神威岬があり、松前藩は「女人禁制」の御触れを出して先へ行かせなかったからです。
明治5年、泊村茅沼炭山の調査をしていた米国人が岩内付近で野生のホップを発見。これが札幌麦酒醸造所の設置となり、岩内郷土資料館前に「野生ホップ発見の地」碑が立っています。
ここの館長は町では知識人として知られている方で館内を案内してくれます。岩内町は館長の話を聞いてから回ると何倍も楽しい旅になります。
上の絵は、共和町の観光名所「神仙沼」がある峠の展望台から描いたものです。眼下に見えるのは岩内平野。
この景色には、原発の廃棄ゴミで知られることとなった原発交付金を受け取った4町村(泊村・岩内町・共和町・神恵内村)が入っています。岩内平野と言っても、実質平野があるのは共和町だけで、他の町村の平地は沿岸だけで漁業が主たる産業となります。
画面の右に行くと、大正元年に開通した函館本線(当時は小樽~函館間)の小沢駅(おざわ)があります。当時岩内の人口は膨れ上がり、鉄道が引かれる話を聞くと、岩内回りの嘆願をし大騒ぎになります。それが叶えられないとなると、小沢~岩内間の岩内線を開通させました。
(今は廃線になっていますが、鉄道記念館は共和町にあります)
道の駅いわない
岩内町の地形は神仙沼があるチセヌプリ(標高1,134.2 m)の峠を下ってきた海沿いにあります。従って、岩内港まで傾斜となり崖を下った場所の平地に道の駅があります。
ここには岩内線の終点「岩内駅」があった場所で、現在はバスセンターになっています。また、道を挟んで海側に「木田金次郎美術館」がありますが、この場所は日本最大のSL「C62」を回転させた転車台の跡地です。金次郎の長男が設計士であったことから、建物を転車台のイメージで建設し中央が円筒になっています。
たら丸
道の駅に入ると、岩内のマスコット「たら丸」が迎えてくれます。
タラの人形がアスパラガスを持っています。
岩内港は江差とともに千石場所といわれ、鰊の漁期には内地から数千人のヤン衆が入り込み賑わいを極めたといいます。
東京から歌舞伎の吉右衛門、幸四郎でも興行を打ったと言われるほど由緒を持った町でした。
文豪の往来も激しく幸田露伴、巌谷小波なども縁があり、林芙美子は「アスパラガス」発祥の地としての原稿があるほどです。
今は、鰊ではなくタラで、片手に握るアスパラは大正13年に下田喜久三が日本アスパラガス(株)を創立し、その碑も街中に建てられています。
ところが、岩内は畑が無いので下田は羊蹄山の東側にある喜茂別に出向き説得に入ります。しかし、アスパラの生産には三年かかるため誰も話に乗りません。諦めず、これは絶対金になると説き伏せて作らせたのが、現在の「アスパラの喜茂別町」となりました。
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