![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172608893/rectangle_large_type_2_cc8726fdec334671df8a4bf73d98bb72.png?width=1200)
北海道人のルーツ48 明治9年<開拓使麦酒酒造所開業>
北海道の歴史(年表) 明治9年
1月14日千島に占守郡などを設く。
1月26日日鮮修好条約調印。
3月廃刀令。
3月31日三井銀行誕生。
7月ウィリアム・スミス・クラーク来日。
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭に赴任。
8月14日札幌農学校設立。
8月金禄公債証書発行条例の発布
9月札幌郡発寒村 屯田兵 第一大隊第一中隊に編入。32戸。
札幌郡山鼻兵村 屯田兵 第一大隊第二中隊。240戸。
9月15日室蘭市立常盤小学校前身開設。
12月19日函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(砲12門に中隊長以下92人を置く)。 ※ベンジャミン・スミス・ライマン「日本蝦夷地質要略之図」が完成。 日本で最初の本格的地質地図。
※小學敎科傳習所 現北海道教育大学函館分校前身
※開拓使麦酒酒造所開業
明治9年 <開拓使麦酒酒造所開業>
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源となって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことなど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策に合致するビール醸造事業が導入されることになります。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレードマークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」として新たなスタートを切ります。