蝦夷の時代12 豊臣秀吉の朱印状
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐、そのあとの奥州検地、全国的な新たな秩序の動きが始まりました。
五代目蛎崎慶広(よしひろ)は、秀吉の奥州検地や全国的な新たな動きに対していち早く動きます。
この行動が松前藩成立の決め手となりました。
秀吉は上杉景勝・前田利家らの諸大名に奥州検地を命じました。この時、蛎崎慶広は津軽に渡って前田家父子らと会い、ついで秋田の木村秀剛を訪ね、更に仙北郡にまわって大谷義継とも面談します。
みな秀吉配下の検地奉行でした。
こうした根回しのうえ、慶広はまだ若年の秋田(安東)実季の上京に同行、道中二か月近くかかって上洛。
一足早く帰京していた前田・木村・大谷のとりなしがあって、慶広は従五位民部大輔に叙せられ、聚楽第で秀吉に謁見しました。
前田利家には特に世話になったのでしょう。後に「松前」と改名するのですが、「松」は徳川家康の松平、「前」は前田から取られたとの説があります。
秀吉は珍しい蝦夷が島の話を聞き、遠路の労をねぎらい50石を与え、帰郷にあたっては時服・銀子を賜りました。
安東氏の一家臣に対するというよりも、独立した大名として遇したといってもよいでしょう。
慶広が帰国してまもなく、東北の南部氏の一族九戸政実が乱をおこしました。
秀吉の検地に抵抗した豪族と通じた九戸政実が独立を図ったもので、秀吉はこの乱に6万余の大軍を差し向けます。
この陣に、蛎崎慶広は主君・秋田氏(安東)とは別に動員され、家臣とアイヌとで編成しました。他の大名たちはアイヌ独特の武器を珍しく見えたようです。
この朱印状を持って、アイヌたちを集め、これに逆らえば和人の大将が何万という兵を蝦夷に向けて戦いに来るであろうと威嚇することになります。