観光客が行かない室蘭巡り(後編)
大黒島
室蘭港の入口に浮かぶ標高35メートルの小さな島は1837年(天保9年)から7年間、この地域の場所請負人をしていた岡田半兵衛が、安全祈願のために島内に大黒天を祭ったことから大黒島と呼ばれるようになりました。
室蘭が生んだ葉山嘉樹の名作「海に生くる人々」の書き出しが、この大黒島でした。
私は大黒島を見に、室蘭絵鞆半島の先端にある絵鞆岬に何度も訪れました。
室蘭市の旅
ホーレス・ケプロンはアメリカ農務局長の要職を辞めて、日本政府の懇請に応じ北海道開拓使頭取顧問を引き受けました。
明治4年8月に日本の土を踏み、在日4年の間で三度、北海道を騎馬で走り回り都度室蘭に寄ります。そうして、港の開発、札幌までの車道の着工、さらに室蘭~札幌間の鉄道を早期に着工することを黒田清隆開拓使長官に提言しました。
ケプロンの献策により、函館から森までを陸路、そこから内浦湾を横切って室蘭に入り、幌別(登別)・白老・苫小牧・千歳を経て北海道の首都札幌に入る札幌本道に対し、黒田は開拓使10年間の予算のうち一割を当てることを決定。
明治5年、室蘭は狭い崎守から対岸の絵鞆半島のトキカラモイ(港町)に移動し、新室蘭のスタートが切られました。
絵鞆半島に測量山(標高199,6m)がありますが、室蘭本道(現在の国道36号)をつくるときに米国人測量士がこの山に登り道路計画の見当をつけたことから「見当山」と呼ばれていたのを、後に測量山と改めたものです。
道路は砂利敷による長距離道路として、日本で最初に作られた馬車道でした。
本州にも立派な道路はありましたが、雨が降るたびに泥濘がひどくなる道路で、本格的な砂利敷道路ではありませんでした。
工事は最初180人前後で進められましたが、函館~森間の工事が終わった7月ころには総勢5,082人と本格的な工事に入り、8月にはトキカラモイ(海岸町と緑町の境界付近)から鷲別までの山道開削も終わり、9月には樽前まで進むスピード工事でした。
明治5年10月、開拓使はトキカラモイ付近を「新室蘭」とし、室蘭村(崎守町)を旧室蘭と改めました。
現在の崎守町は、その後「元室蘭」と呼ばれましたが、住民は「元ではなく本当の室蘭だ」ということから「本室蘭」に改め、現在でもこの地名が学校の名前で残っています。
工事は10月には札幌本府の直前まで進みましたが、寒さのため人夫は新室蘭で越冬することになりました。
本道工事と並行してトキカラモイの桟橋は、長さ47m、幅2mの木造埠頭として築かれていました。
桟橋完成とともに、室蘭~森間の定期航路の第1船として就航したのは、開拓使の付属船「稲川丸」(15t、乗員11人)で、この明治5年が、室蘭港開港の年になります。
しかし、定期船は小型の古船であったため、しばしば欠航。
明治18年に日本郵船に経営が引き継がれ、室蘭丸(52t)が正確な発着時間の運行となりました。
ところが、森桟橋に到着してから函館まで44㎞(11里)の陸路を馬車で9時間もかかるため、郵船会社は明治26年に室蘭・函館・青森を結ぶ三港定期航路を新設しました。
明治25年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭鉱鉄道会社が石炭積み出しのため、岩見沢~室蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、新日鉄住金の一門付近に室蘭停車場を開設して一般乗客の営業も開始しました。
それと同時に、現在の御崎駅付近に貨物専用駅を設置し、木造桟橋では石炭の積み出しも開始され、この年は室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となりました。
葉山嘉樹「海に生きる人々」の文学碑が、入江臨海公園に建てられています。
海を背に高さ2m、幅3mの有珠山の安山岩の主碑と黒御影石の副碑には本の書き出し「室蘭港が奥深く入り込んだ・・・・」が刻まれています。
この場所は、かつて石炭積み出しの船が出入りして栄えた港を埋め立てたところです。
プロレタリア文学といえば、小樽の小林多喜二「蟹工船」ですが、小林は葉山に感動して石炭を蟹に置き換えて作品にしました。葉山がプロレタリア文学の先駆者です。
この小説は治安容疑の服役中に、刑務所で検問を受けながら書き上げられ、後に世に出されました。
室蘭は文学の町
北海道観光で人気の町といえば札幌は別にして、函館と小樽になるかと思います。しかし、函館は高田屋嘉兵衛からの200年、小樽は明治に入ってからの150年の歴史です。二つの町で共通しているのは豪商が作り上げた町であることです。
ところが、室蘭の歴史は普通の人たちが築き上げた歴史が400年ある街です。特にアイヌの人たちの暮らしと和人の知恵が合わせられ、それも記録が残されているのは室蘭しかありません。
金田一京助に「室蘭王」という随筆があります。
アイヌ研究の恩人で、室蘭に来るたびに便宜を図ってくれた実業家です。
これによると明治39年(24歳)に初めて室蘭に上陸して、有珠、虻田のアイヌ部落、転じて幌別、白老、鵡川、富川をへて、アイヌの都、平取に入りユーカラを筆録したとあります。以来、本道の旅が続き、大正7年に旭川の近文で金成マツと知里幸恵に会うことになります。胆振地方はアイヌ文化の宝庫で、金田一は記録し残していきました。
室蘭が北海道の玄関口となり次々と文人たちが降り立ちました。
そうして、船を降りた道が「札幌通り」というので驚きです。室蘭が札幌の入り口となり未知への憧れがあったのでしょう。
明治28年9月18日、25歳の国木田独歩が室蘭に到着。近代作家ではじめて室蘭に足跡を印したのは独歩でした。独歩は翌日汽車で札幌に発つのですが、室蘭~岩見沢間の鉄道は明治25年に開通していたものの、旅客駅の始点は輪西村の仲町でした。人力車で輪西に向かい列車に乗ったのでしょう。こうして国木田独歩による北海道文学の夜明けを告げる「空知川の岸辺」の旅が始まります。
明治30年、有島武郎が20歳の時に室蘭に来ました。前年、札幌農学校に入学するときは小樽からでしたが、一年後は夏休みを利用して室蘭港から帰省。
「新渡戸稲造先生はじめ皆々に暇乞いして家を打立ち8時20分の汽車に乗る。かくて車は札幌の停車場を後にして遂に室蘭に着く。」文学者ですから、随筆で街の情景とその時の心情が克明に残されています。(列車は岩見沢経由の室蘭行です)
明治36年には、徳富蘆花も室蘭に上陸。8月初旬で、30歳の徳富は背広姿。自伝的小説で「その夜の船で室蘭に行き、室蘭から旭川に向かった」函館本線がまだ全通していなかったので室蘭に足跡を残したものです。この時は旭川の第七師団にいる若い軍人に会いにきたもので、「地図の上の北海道は島であるが、感ずる気分は大陸のそれであった」名作「自然と人生」に室蘭沿線の感想が延々と残されています。
港の文学館
私が写真にある「港の文学館」を訪れたのはかなり前になります。札幌・小樽に続いて三番目の文学館です。入るなり、札幌・小樽とは違う雰囲気を感じました。それは市民の手作りの文学館だったからです。平成25年に、この文学館は室蘭駅の近くに移転したようです。
北海道で初の芥川賞作家となった八木義徳は室蘭出身です。三浦清宏が二人目の芥川賞、さらに室蘭ゆかりの長嶋有が三人目の芥川賞作家として加わります。
八木義徳のコーナーがありました。
室蘭市民がどれほど八木義徳を愛し敬意を表しているかがわかります。
八木の作品は繰り返し、繰り返し室蘭を書き続けていました。
官立民営方式で、「文学館の会」がボランティアで協力しているということがありありとわかります。このような文学館も珍しいと思います。敷地内には、棟方志功の版画碑が建立されています。
それほど大きな絵鞆半島ではありませんが、「碑および史跡」が26、文学碑が12建立されているのです。それだけ文人や偉人の往来が激しかったのでしょう。
鉄のまち室蘭はありません
「鉄の町室蘭」と言われていた時代がありました。
平成30年に宮古~室蘭間のフェリー就航を始めました。街の活性化のために、いろいろと知恵を出して取り組んでいるようです。
私は葉山嘉樹「海に生きる人々」の文学碑を見たときに、35年ほど前にロサンゼルスで見た波止場を思い出しました。
「観光客は誰もいません」と言って連れて行ってくれたのはA級ライセンスを持つ添乗員でした。かつては盛況であったと思われる波止場をそのまま生かして、市民の波止場公園になっていました。
古い漁民の建物はレストランや雑貨屋に、通路にはパフォーマンスやバイオリンを弾く人、ピアノの音もします。水辺では子供が凧を上げや大きなシャボン玉を作っていました。
入江臨海公園を「波止場公園」にイメージしてみました。
観光・観光といいますが、観光客を迎える前に、地元に住んでいる市民が楽しむ場所を作ることの方がより大切なことではないかと思います。
室蘭には、他の街には無い誇れる文化と歴史があります。400年の歴史を彷彿させる公園で、市民が葉山や八木、そうしてケプロンの碑を前に語り会う姿を見ると、自ずとそれを見たくて人が集まって来るでしょう。
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