観光客が行かない中川町の旅・後編
斎藤茂吉来町記念歌碑ー中川町
1932年(昭和7年)、短歌の巨匠斎藤茂吉が、中川町志文内(現共和地区)で医師をしていた兄を訪ねました。
16年ぶりに三兄弟の絆を深めあった由縁と、茂吉の文学的史跡を1978(昭和53)年10月に斎藤茂吉来町記念歌碑として2基建立しました。
青々とおどろくばかり太き蕗が沢をうづめて生ひしげりたる
さよなかと夜は過ぎつつ志文内の山のうへ照らす月のかげの清けさ
50歳の斎藤茂吉が中川村の志文内に兄の守谷富太郎を訪ねたのは、昭和7年8月で弟の高橋四郎兵衛を同伴しての旅でした。
下記は茂吉の日記から。
「東京を発ち故郷の山形県を経て本道に上陸し、8月14日(日曜日)雨、旭川ー志文内。午前6時55分旭川を発ち。音威子府にて宗谷本線に乗り換え。午後0時30分佐久に着く。豪雨のなかを草鞋はき徒歩にて志文内に向かう。若者二人迎えに来る。四郎兵衛はリックサックを負ふ。天塩川濁流逆巻く。午後4時半志文内の富太郎兄の処に無事著す。富太郎、富子途中まで迎えに来る。十六七年ぶりの会合なり。富子13歳にて僕はその時に長崎に居りたりき。入浴して寝たり。
ビール。ウィスキー飲む」
中川町では毎年「斎藤茂吉記念短歌フェスティバル」と称して短歌募集を行っています。令和3年は第28回でした。
中川町の失われた風景の映像から
1965年(昭和40年) 13分 白黒 音声あり
映像では開基から60年とありました。
60年前とは1960年(明治38年)になります。
中川町の歴史は、明治36年に御料地の貸付開始が町の始まりとされ、29人が借受けているのですが実際入植した年がその二年後を開基にしているのではないかと思います。
中川村が置村され富山・岐阜県人などの移住により村としての歴史が始まります。
昭和40年の産業
寒さに強い馬鈴薯の品種改良をして栽培しています。更に、安さを追求しています。これは澱粉工場の完成にありました。1日に720トンを工場は受け入れて、4トンの澱粉生産を行います。
町は霜の被害が少ない馬鈴薯栽培に力を入れているのです。
農業経営に酪農(乳牛)を促進しています。
中川町は「山」と「川」の贈り物がある町
天塩川には鮭が遡上します。
山にはアンモナイトなどが砕石され、石ブームで特徴ある岩石が取れる中川の山は宝物なのです。
土木工事の風景
国道40号線の開削工事。
並行して天塩川を1300mにわたり流れを変えるための土木作業を行っています。昭和44年の完成を目指していました。
以上
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