見出し画像

観光客が行かない浦河町の旅・後編


浦河町



赤心社

国道235号で海沿いを新ひだか町の静内川を渡り、浦河町に入ると元浦川があります。この川の近くが荻伏(おぎふし)という小さな町で旧名は元浦川といいました。
現在の浦河ではない「浦川」です。
浦河役場荻伏支所があり、役場に隣接して赤心社記念館なる木造建築物があります。


北海道開拓の担い手は、当初士族救済とロシア阻止を目的とした屯田兵、そうして株式会社方式で開拓移民を募った開拓結社でした。

浦川の赤心社は、開拓移民の北海道一番乗りです。
当時北海道を、アメリカへメイフラワー号で移民したピューリタンに見立て西洋式農業開拓を唱えた津田仙がおりました。
わずか7才でアメリカへ咸臨丸で留学し津田塾の創立者となる津田梅子の父親です。津田仙は成田空港近くの佐倉の藩士で、蘭学を学んでいました。
明治維新前にはすでにチョンマゲを切っていたという改革派で、三度の海外留学をしています。
近代農業に興味を持ち、学農社農学校(現青山学院)を創立し、更に農学雑誌を出版し近代農業を普及していました。


浦河町の街づくりは「赤心社」


上の建物は札幌「北海道開拓の村」に「旧浦河公会会堂」を移築し保存されています。

赤心社の指導者の多くがキリスト教徒で、明治19年「浦河公会」が組織されます。この会堂は、2代目の礼拝・集会所として明治27年(1894)に建てられたもので、赤心社の貴重な写真などが展示されています。


 「赤心社」の由来

『嗚呼我が同志愛国の諸君よ、僅かの酒食料の一部分を投じて永く子孫の生産を図り、併せて報国の赤心を奮起する意なき歟』から付けられました。
応募者を集め役員選挙を行い、社長に鈴木清、副社長に加藤清徳が選ばれました。

赤心社の本社は神戸に置き、社長は本社、副社長は現地に駐在。
第一陣の移民は途中暴風雨に合い函館で20日間の滞在を余儀なくされましたが、明治14年5月19日浦河に到着。
社長鈴木清は、入植状況の視察するため7月31日に浦河に到着。
早速開拓地を視察したところ、開拓されたのは僅かに七反歩。あまりの業績不振に鈴木は唖然。
すぐさま札幌に行き開拓使勧業課、租税課その他各方面に奔走して、農事指導者を迎え、為替送金、麻種の払い下げ、耕牛・機械類の購入。失望離散した移民を集め激励します。社長自ら陣頭指揮で体制をたて直し、近隣地所を視察し、元浦川流域を新たに開墾地に選びました。


興味のある方は下記に連載で書いています。


いいなと思ったら応援しよう!