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観光客が行かない斜里町の旅・後編

斜里町名の由来はアイヌ語のサルまたはシャルより転化したもので、いずれも「アシの生えているところ」の意味です。
現在の斜里に人が住み始めたのはおよそ3万年前。
先土器時代と呼ばれ、石器の形式が大陸北部のものと共通点が多く、北ヨーロッパからシベリアを経て、北海道北東部にわたる北アジア文化圏の一端を形成していました。

奈良朝から平安朝の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた海洋民族がおりましたが、この民族の文化は従来の北海道には見られなかった系統のものでオホーツク文化と称せられています。
宗谷に上陸した彼らはオホーツク海沿岸を東進し、北千島に至る過程で斜里町にも多くの遺跡を残しています。アイヌ文化期の初期には、まだいかなる民族の支配も受けず、大陸との交易は宗谷、樺太を通して行われていました。

蝦夷の時代

シャリ運上屋の創設は1790年とされています。
当初は宗谷場所の管轄でしたが、この年にシャリ場所を開設しました。

1806年にロシア船が往来、樺太のクシュンコタンに上陸し略奪が行われたため、翌年幕府は蝦夷地全域を直轄としオホーツク海岸・樺太も含めて警備を強化します。
この時に白羽の矢が立てられたのが津軽藩で、シャリを中心とする北方警備がその任務でした。
シャリで駐屯、越冬した100人中72人が極寒の中で栄養不足による浮腫病により死亡という悲劇が生まれます。

斜里市街の町民公園には津軽藩士殉難慰霊の碑が立てられ、斜里町と弘前市は友好都市の提携をしています。
津軽藩士シャリ陣屋跡、津軽藩士墓所跡、シャリ運上屋(会所)跡は斜里町の文化財に指定されています。

毎年、7月第4土曜と前日の金曜には『しれとこ斜里ねぷた』が開かれています。大小12基余りの扇ねぷたが午後7時に斜里町役場前を出発し、斜里市街の目抜き通り2.5kmを練り歩きます。
道の駅しゃりには「ねぷた」がありますが、このねぷたには、斜里町の歴史が秘められています。

明治5年、斜里郡の村名が定められ、ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。
明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に開拓の鍬を打ち下ろしました。
知床は2005年7月17日にユネスコの世界自然遺産に登録されました。

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