北海道ゆかりの人たち 第十七位 滝本金蔵
1826年(文政9年)-1899(明治32年)
幕末-明治時代の開拓者。
温泉の町「登別」第一滝本館の創始者です。
生い立ち
金蔵は1826年、武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)の野村家生まれで生家は農業でした。実家の家督は、長男が継ぎます。
手に職をつけようと、10代の半ばで江戸に出た金蔵は大卯の棟梁に弟子入りし、江戸でも腕利きの職人となっていきました。
料理店の娘だった佐多と世帯を持ち婿養子として滝本家に入りました。
そのとき、蝦夷地(箱館奉行所役人の新井小一郎)で職人の募集という話にであいます。当時の蝦夷地は新興地で行くまでの旅費は無料。
さらに、開拓した土地は自分のものになるというふれこみでした。
32歳の金蔵はそれにかけることにします。
滝本金蔵は1858年(安政5年)2月、募集に応じて山越内場所(現八雲町山越)長万部に後手作場として入植します。
妻の佐多と共に慣れない鍬をもち開墾し始めた頃、佐多の身体に偏重がおきます。原因不明の皮膚病が佐多を襲い全身に広がっていきました。
開墾など到底できなく、ついには、子どもの世話もできなくなるほどでした。
当時、入植者が他の土地へ移住することは禁じられていました。
しかし、あまりの不憫さに長万部の雇い主は、場所請負人に金蔵親子の移住許可を提出。
その場所は幌別、病にきく温泉があるといわれているところでした。
移住許可の申請が聞き届けられ、金蔵たちは長万部から幌別に移ることができました。
幌別に移住
幌別に着くと金蔵は、家族をつれて、登別川の奥地の温泉の湧き出るところに行きました。
彼の目の前で、温泉が、白煙とともに凄まじい勢いで吹き上がっていました。金蔵は、温泉が佐多の身体に効くということを確信し、彼女に温泉に入るようにいいます。
佐多がおそるおそる温泉に入って、わずか数日。
佐多の身体はみるみる回復していきます。
痛みやかゆみは治まり、彼女は元気を取り戻していきました。
彼はこの効き目を多くの人に知らしめようと、この温泉場所に小屋を建て、湯守になることを決心しました。
湯治場を建築し、そこでささやかな温泉経営を始めました。
しかし、登別川の奥地は里から来るには、あまりにも遠くて不便でした。
しかも、熊などの獣害も心配され、客足はなかなか伸びません。そのため彼らの最初のお客は、近在のアイヌ民族の人々でした。金銭を持たない彼らに対しても、金蔵夫婦はあたたかく迎えました。
次第に評判が評判を呼び、幕府の役人や硫黄山の労働者、さらに白老の仙台藩陣屋や南部藩出張陣屋の武士も訪れるようになっていきます。
そして、幕府にも金蔵たちの努力が認められ、それらの功績を認めて金蔵を永久湯守とする沙汰が下されます。
明治
明治に入り、幌別役所より湯守であることを許可され、登別村に旅人宿を開きます。
明治5年には室蘭と札幌を結ぶ道路が開設され、これまでよりも人で賑わいました。金蔵は里に漁場を開き、温泉開発の資金を得て明治14年、私費で温泉と里を結ぶ道路(紅葉谷の上を通る新道)を開削します。
明治21年に平屋の一部を二階建てに改築しこれまでは外湯だけであったのを、別に湯室を建て増して内湯を設けます。
「湯元の滝本」の始まりでした。
また、全額私費を投じ必死の思いで開通を願った「馬車道」開通は豪雨出水や脳溢血で半身不随となり、戸板に乗り担がせて道路工事の指導をしたと伝わります。この道が苦難を重ねながら明治24年に完成します。
7キロのこの道は、2千万円(4千万円相当)。
温泉への山道を走る4人乗りの客馬車はハイカラ馬車と呼ばれ、ユーモア溢れる金蔵により御者は豆腐屋用の愛らしいラッパを吹かせて客馬車を走らせていました。
この事がたちまち温泉の名物となり、当時の落語家である橘円太郎が話の中に取り上げて人気を集めたことから、円太郎馬車とも呼ばれるようになりました。
政府はこの美談を讃えて、明治24年藍綬褒章を下賜しました。
明治26年の北海道毎日新聞は、当時の登別温泉を次のように報じています。
滝本金蔵は、明治32年に73歳でその祖湯外を終えました。
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