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観光客が行かない名寄市の旅ー前編

名寄市


          人口25,376人 (令和5年12月)  
             

大関名寄岩 

名寄という地名を全国に広めた名寄市出身(生まれは小樽市)の力士がおりました。
本名は岩壁静雄(大正3年-昭和46年)。明治33年、山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団として高島郡高島村(現在の小樽市)に移住し、静雄の生後10か月くらいの時に名寄に引っ越す。
初土俵以来44場所を努め40歳で引退。最高位は大関で同じ立浪部屋の双葉山、羽黒山とともに「立浪三羽烏」と称された。名寄岩の人気が沸騰したのは2度目の大関陥落後で、40歳で金星と敢闘賞を獲得、関脇まで返り咲いたのです。その劇的な土俵人生は「涙の敢闘賞」として舞台化、映画化もされました。「大関名寄岩」の銅像は名寄市スポ-ツセンタ-前広場に建立されました。 


名寄岩



なよろの地名はアイヌ語のナイオロプト(渓流に注ぐ口)からと言われ、名寄川が天塩川に注ぐ様子をいったものです。


天塩川

この絵は名寄川が天塩川に注いだ場所から下流を描いたものです。

松浦武四郎が「北海道」と名付けるキッカケとなった音威子府村の川べりに立った時、天塩川を描いてみたいと思いました。
以来ふるさとである上士別町で天塩川を見に行きましたが、イメージしている川ではありませんでした。幼いころに見ていた天塩川は、川幅が広く、流れは早く、堤防も破壊するほどの大河だったのです。
しかし、願っておれば、叶えられるものだと思いました。
カヌーで天塩川を下り「武四郎の碑」で児童たちと写っている写真を送ってくれる方がおりました。もしかすると、と思いお願いすると川の中央でカヌーから写した「天塩川」を送ってくれました。
コメントで「カヌーで天塩川を上り、このまま漕ぎ進むと、川と空がくっつくかのような錯覚におちいることがあります。写真の近くには松浦武四郎の宿営地といわれる場所があり、「ナイフト」というアイヌ語で呼ばれていました」とありました。

明治30年に道庁告示で、名寄村は上川郡上名寄村と中川郡下名寄村を設置しました。上名寄村が現在の名寄市になります。
名寄に初めて入地した和人は大屋敷磯吉という人で、明治31年ごろ天塩川沿いに移住し開墾したとされています。上名寄村も屯田兵による開拓予定地でしたが、屯田兵制度が廃止になり移民招致区域となりました。

明治33年、士別~名寄に至る仮県道が開削され、山形県人太田豊治ら34名で移住団体を組織、曙地区に13戸の先発隊と共に入地しました。また、福島県永井庄助の先発隊13戸、富山県大谷治郎市の越中団体21戸などが入りました。
このころは日進区と内渕にアイヌ人が13戸移住していました。

明治36年、天塩線が名寄まで開通、宗谷線、名寄線の開通により交通の要衝となります。更に、昭和2年には高等女学校も設置され上川有数の町となります。


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