見出し画像

観光客が行かない小平町の旅・後編


にしん文化史公園


国道232号を挟んだ海岸側がにしん文化史公園になっており、「松浦武四郎歌詠みの地」の標柱とともに銅像が建っています。


松浦武四郎



台座には

「当地へも四度も渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している」

と書かれています。

像の傍らにアーチが架けられ、反対側の台座には

「名にも似ず すがたやさしき 女郎花 なまめき立てる おにしかの里」

という和歌が刻まれています。

三船遭難慰霊之碑


三船遭難慰霊之碑



にしん文化史公園の左側に「平和への祈り」碑とともに「三船遭難慰霊之碑」が建っています。


この海で悲惨な事件があったことを知る人は少なくなりました。




◆昭和20年8月22日、留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受けました。
小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となりました。

碑文

昭和20年8月15日 太平洋戦争終る 終戦後7日 昭和20年8月22日早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を渡る この日泰東丸 第二新興丸 小笠原丸の三船は戦乱の樺太(サハリン)より緊急引揚の老幼婦女子乗組員 5082名を乗せ鬼鹿沖にさしかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い瞬時にして沈没或は大破し 1708名の尊き生命を奪わる 離別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う 悲惨の極みなり 星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい靈鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ 

昭和50年8月22日 樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会


道の駅おびら鰊番屋の隣にある「小平町郷土資料館」に沈没した泰東丸の遺品コーナーがあります。

佐藤生人「サハリン脱出」で次のように書いています。


第二新興丸が雷撃を受け、そして、泰東丸が沈没した鬼鹿村の海岸には、おびただしい浮遊物と遺体が日夜を通して漂着した。
部落民は、これらの遺体を近くの松相寺に運び入れるとともに、土葬に付して供養を行った



 




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?