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北海道ゆかりの人たち 第十二位 蛎崎波響(かきざきはきょう)

宝暦14年5月26日(1764年6月25日) - 文政9年6月22日(1826年7月26日)

日本の画家、松前藩の家老。

蛎崎波響

アクセス972(2023.11)

北海道が蝦夷と呼ばれていた頃にアイヌ民族と和人(日本人)との間では大きな争いが三回ありました。
そもそも北海道は先住民族アイヌの人たちの大地でした。

中世時代(室町から鎌倉の初期)に和人(日本人)が蝦夷地に上陸したのが始まりでした。圧倒的に人口の多いアイヌ人に対して、蝦夷地で生きていくために低姿勢で接していましたが、人数が増すに従いアイヌ民族を見下すようになります。

最初の蜂起は応仁の乱の10年前1457年で「コシャマインの戦い」といいます。現在の函館空港近くに、和人が作った館がありました。アイヌの青年が鍛冶屋に作ってもらったマキリ(小刀)で刺殺されたことがはじまりでした。

二番目の蜂起は、徳川幕府(第四代家綱)の時代で寛文9年(1669年)でした。
蝦夷地における最大の戦いとなり当時の幕藩制国家にとっても、島原の乱(1637-38年)以来となる大事件でした。
東蝦夷地シブチャリ(北海道新ひだか町の静内)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした「シャクシャインの戦い」です。

そうして最後が1789年(寛政元年)に蝦夷地の東部で起きた「クナシリ・メナシの戦い」です。
戦いの翌年、松前藩の家老蛎崎波響によって描かれた「夷酋列像」がありました。この12人の人物像は、松前藩の和解策に協力的した12人の有力者だといわれていました。
この肖像画がフランスで発見されたことから、様々な憶測を交えながら解明がされてきました。




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