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観光客が行かない湧別巡り
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観光客が行かない湧別町の旅
人口8474 人(2021年2月28日)
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「北風ぞ吹かん」 寒川光太郎(さむかわこうたろう)
戦前の北海道はハッカの生産量が世界の七割を占めていました。
生産地は北見国、ハッカ栽培の先駆者は会津若松出身の渡部精司で、湧別町と佐呂間町にまたがる湧別原野がハッカ産地として知られていました。
「北風ぞ吹かん」(昭和17年4月の発行)は、湧別原野を舞台にしたハッカ栽培に身を投じた祖父がモデルの開拓小説です。
寒川光太郎は北海道羽幌町出身。
1940年、『密猟者』で第10回芥川龍之介賞を受賞しています。
湧別平野(ゆうべつへいや)
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湧別平野はオホーツク海の中央部に位置し、北海道で最大のサロマ湖を抱え北見峠に水源を持つ湧別川流域に大地が広がる平野です。
平地や、起伏のある大地が広がり、標高の高い山は比較的少なく内陸部にある程度です。湧別川中流~下流~河口に位置するため、肥沃な大地では畑作が、山間や河口域では乳牛飼育による酪農が盛んで牧歌的な景色が広がります。
ゆうべつ名の由来は、アイヌ語「ユペ」からと言われ、鮫(鮭のこと)を意味し、鮫が多いところからとの説があります。
明治30年に紋別村(現紋別市)より分離して湧別村戸長役場を設置。
同年、後に上湧別となる地域に屯田兵の入植がはじまります。
明治43年には鉄道が開通し、開拓に拍車がかかり耕地は増加しつづけると、同年湧別村から分村し上湧別が独立しました。
(上湧別町の歴史は平成21年(2009)に湧別町と合併し新「湧別町」となります。北海道の平成合併は、これが最後で市町村は212から33が無くなり179市町村となりました。)
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遠軽町から国道242号を北上すると旧上湧別町に入ります。
上湧別の名は、湧別川の上流にあたることから付けられた町名でした。
田舎町の道路には花壇が並ぶ風景は珍しくありません、ところが上湧別には驚きました。花壇の並び方に街の人たちの熱意と温かさが存分に伝わって来るのです。さすがにチューリップの街といわれる由縁でした。
国道は238号と交差しますが、突き当たる手前に「道の駅かみゆうべつ温泉チューリップの湯」があります。
上湧別はここまで、敷地内に鉄道の駅が保存されています。
屯田兵村が設置されたところは鉄道が優先したのでしょう。
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238号を左折するとシブノツナイ川を境として紋別市に入ります。
オホーツク沿岸を走る238号は元々湧別町エリアで、右折するとサロマ湖を擁し「湧別ハッカ」として名をあげた「芭露ハッカ」地区があり、更に進むと道の駅愛ランド湧別が見えてきます。
サロマ湖は、湧別町、佐呂間町・北見市常呂町と3自治体の管轄となっています。湖は広く、サロマ湖観光といってもこの三自治体で違ってきます。
明治24年、上・下湧別原野の区画設定が行われ、初期入植者のなかには生活のため漁場労働に転向する者、屯田兵村建設工事に従事する者もあり、土地を放棄する者も少なくありませんでした。
明治30年からは湧別南・北兵村の入植がはじまり、消費・流通も活発化し漁業も進展します。サロマ湖漁場も開拓され、鉄道の開通で鮮魚輸送の便が開け市場の開拓が進みました。
この頃から芭露(ばろう)を中心にハッカ栽培が盛んになり北見ハッカの四分の一を産し、「湧別ハッカ」「芭露ハッカ」として名をあげることになります。
<ハッカ成金>
北見のハッカといえば、世界中に売り出されて有名なもんだった。
むかしの北見は鉄道はないし、馬車もない。
馬の背に荷物をつけて運ばなくちゃならないから、畑の作物は軽くて金めになる物がいいっていうわけで、ハッカが急に広まった。ハッカというのは、ヨモギにクローバーの葉っぱをつけたようなもので、秋にかりとり、せいろでむしてハッカ油を取るんだ。
これがたいした値打ちもんで、ビール二本分が米一俵になったくらいだ。
それが何百本も取れるのだからたまらない。長い間汗水流して荒れ地をおこしてきて、初めて大金を手にしたもんだから、血が頭にのぼっちまって、変なおっちゃんたちが何人もいたということだ。
上湧別は屯田兵の町
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明治29年から湧別兵村の建設がはじまり、翌年には熊本や山形・愛知から入兵しました。現在も兵村という地名が町内に残っています。
屯田兵により拓かれた上湧別地区は、国防と開墾を担う屯田兵には面積4.4ヘクタールの土地が無償提供され農地とされていたのですが、決して広くない面積から北海道で農業経営するのは厳しい状況でした。
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ふるさと館JRY
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郷土資料館と言えば、かび臭いところに資料が保管されているところが多いのですが、ここは立派な建物で入り口には学芸員がおります。
屯田兵の歴史を豊富な資料と精密な模型で解説しており全道随一の規模と思います。屯田兵は明治30年と31年に399人が入植しました。実物の屯田兵屋が25mの吹き抜け大空間に展示されています。
屯田兵の肖像画(382人分)も展示しており、これも圧巻です。開拓生活や軍人としての訓練についてなどがよくわかります。
屯田兵とチューリップの町
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昭和32年、当時の農業改良普及所長・西川照憲が「少ない面積の農家の収入を増やすには高収益であるアスパラガスとチューリップが有望」と呼びかけます。
54戸の農家がチューリップ耕作組合を結成、オランダからチューリップの球根22種類6万500球を輸入し、「チューリップで夢を見よう!」を合い言葉に外貨獲得の大きな期待を担って開始されました。
昭和35年にはバンクーバー・シアトル・サンフランシスコに初輸出され、生産量・輸出量共に全道一となりました。
軌道に乗り栽培も順調に伸びていくものと思われた矢先、昭和41年にオランダの球根が世界市場で値下げされたため輸出が困難となりました。チューリップ栽培の夢が消えかかったのですが、生産農家たちはチューリップを畑の片隅や自宅の庭に植え続けました。
そして「かつて町の農業に活気をもたらしたチューリップを後生に残そう」と昭和51年「町の花」に指定されることになりました。