蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜
砂金のゴールドダッシュは約半世紀続き下火になりましたが、明治に入ってから再度復活します。蝦夷の地は、まさに「黄金の国」だったのです。
今日でも町興しの一環で「砂金祭り」が残っています。
砂金と入れ替わりに江差の檜山が松前藩の財源となりました。
上ノ国天の川より厚沢部にかけての檜山の木材でした。この檜は檜に似たアスナロで、寛永の福山館修築にも用いられています。
延宝6年(1678)厚沢部山を開放し、檜山奉行を置いて取り締まり、山師から運上金をとって伐採を始めました。
元禄期には年・運上金2000両以上となりましたが、同8年の山火事で事業は一時衰えました。
元禄15年(1702年)、初代飛騨屋久兵衛(トップの写真)が松前に渡ります。
飛騨屋は飛騨(岐阜県)出身の商人で、当時は南部大畑の檜山を経営し、木材を江戸・大阪に送っていました。
松前藩の許可を得て、蝦夷地尻別の蝦夷檜山をひらきます。
その後、沙流・釧路・厚岸・石狩・夕張・天塩などの蝦夷檜山を開いて巨富をなし、江差檜山にも手を伸ばしました。
蝦夷の木材業は飛騨屋の独占に委ねられることとなりました。
※飛騨屋久兵衛について
現在の岐阜県下呂町で木材請負業武川久右衛門の長男として生まれます。
下呂を拠点とする同家は,久兵衛が元禄9(1696)年木材の大市場である江戸進出を果たし,以後次第に発展,飛騨屋と号します。
下北の大畑(青森県大畑町)を経て、松前にも進出し,蝦夷地産の木材を江戸市場などに送って巨利を得ました。
「碌々と山間に生涯を終らんよりは寧ろ他国に出て事を成す」との意志が強く,この冒険的事業家としての性格が,成功の要因であったと思われます。
以後代々久兵衛を名乗りますが,2代目までは山林事業。
3代目は安永2(1773)年,松前藩への巨額の貸付金の代償としてアッケシ,クナシリなどの4場所を請負い,山林経営から漁業経営に転換していきました。
しかし4代目は,アイヌ酷使のため寛政1(1789)年のクナシリ,メナシのアイヌ蜂起を発端に松前藩から場所を没収されました。