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二元論とレッテル貼り

はじめに

よく、ものごとを分かり易くするため、0か1か、YESかNO かで決めつけて、すべてそれで判断する人がいます。 同じような思考パターンに、物事にレッテルを貼ってしまい、以降は顧みない人がいます。 二元論よりマシですが、一つのものに一つのレッテルしか貼ることしかを許さないのは、いわゆる型に嵌める思考です。 これは、とりわけマスコミ報道に多い傾向でもあります。

二元論とレッテル貼り

物事を分類したり、成否を判断することは、知識を整理する上で良い方法なのですが、結果がすべてであると言う思考には問題があります。 なぜなら、その結果をもたらした評価軸の思考が抜けているからです。 つまり、レッテルが評価のすべてで、それですべての判断が下されているからです。

ただし、あらゆる学問における分類、パターン分析を批判しているのでありません。 むしろ、初学者にとって、基本的な知識をある程度固定するための方便としては、有用でしょう。

二元論やレッテル貼りはなぜ問題か

簡潔さは重要ですが、それはあくまで、目的に合った利便性がある場合に、有用であると考えましょう。 まぁ、知識というのは、そういうものの集合体でもあるのですが、 往々にして、レッテルを貼って型に嵌めてしまうと、安心してしまい、それ以上は考えない、いわゆる思考停止になりますので注意が必要です。

型に嵌める思考を続けていると、難しい問題に対峙した時、行き詰まってしまいます。 それ以上、知識を拡げてこなかったからです。

判り易いので悪用され易い

政治家が政敵に対してよく発言する言葉「XXXは、YYYだから、悪いのはXXXだ。」には、ありがちな表現です。 二元論とまで言わなくても、レッテル貼り、イメージ戦略はたいへん重要ですから、政治問題・社会問題にでさえ、我田引水に利用するのです。 左翼や右翼が良く使うレトリックですね。

世間を見渡すと、反原発、反ワクチン、環境保護団体、陰謀論者などのプロパガンダによく見られます。 これらの団体がよく使う、「安全神話」とか「ゼロリスク」などの言葉は、非科学的な極端な二元論からくるものです。 ただ、政府・マスコミでも、太陽光発電、EVなどの推進派にもこのレトリックは混じっていますね。

要は、物事をラッピングし、見せないようにして、本質を悟られないようにしているのです。 よく調べ、考えると、詭弁だと気付くのですが、敵もさるもの引っ掻くもの、調べる余裕を与えなかったり、情に訴えたり、時には高圧的に出て感情を揺さぶって、正しい判断をできないようにしてきます。

保険の考え方

話は少しズレますが、現代社会では多方面に於いて保険・リスクヘッジが盛んです。 最近の日本の生保・損保だけでも50兆円規模で右方上がりで伸びています。 リスクヘッジ・リスクマネージメント・危機管理がない事業活動は許されないほどで、あらゆる活動(ただ生きているだけでも)には常にリスクが伴うのです。 つまり、「安全」や「ゼロリスク」は、絵に描いた餅、数学で言う極限値であって、現実には有意なリスクが伴うため、保険業界が成り立っているのです。 我々の日常生活は、常に大きなリスクにさらされていることを認識すべきです。

キャンセルカルチャーは愚者のすること

さらに、話は逸れますが…
キャンセルカルチャーを信奉する人は、二元論やレッテル張りが好きです。 何かを反対したい人は、直ぐに、物事にレッテルを張り、人々が反対しにくい、「安全」「ゼロリスク」を持ち出し、それが脅かされることを主張します。 しかし、活動しないことのリスク、人は立ち止まっては生きられないことに目を背けています。 既得権益を守るための保身もあるでしょうが、ある意味、非生産的で進化・生存そのものを否定しているとも言えるでしょう。  

事故を恐れて自動車を運転しないのと同じです。 そのために保険は活動におけるリスクをカバーするためにあるのです。 もちろん、許容できない大きなリスクを伴うときは、見直す必要があるでしょうが、ゼロリスクまで求めるべきではありません。

詐欺師は型に嵌めたがる

物事にレッテルを貼ったり、二元論に嵌め込もうとしたりするのは、訴求性を高めるため、民衆を煽動する活動家がよく使う手法です。 いわゆる、プロパガンダにはそう言うものが多いですので、騙されないように注意しましょう。

アジテーションが上手い人は、第三者が客観的に測れる定量的な評価がしにくい話を好んで引き合いに出します。

言っている事は、ほぼマトモに思えるのだが、物差しがないため、ズレても気付きにくく、少しずつ微妙で、出てきた結果がトンデモないと言うことがあるのです。 最近では、都知事選でありましたね。 誰とは言いませんが…

世に言うサイコパスは、人を操ろうとしますので、言説を弄するも、人当たりの良い感じの人が多いのはこのためです。

名をもってあだをなす

かたきと言う意味の仇(あだ)と、あだ名(綽名)のあだとは語源が異なりますが、人の性格や容姿によって与えられる「あだ名」は、まさに名(レッテル)をもって、型に嵌め、あざけることで不快感(ストレス)を解消しているようです。 恨みほどの感情はないにせよ、いじめることで、ストレスを解消しているのです。

「だってXXX(レッテル)だもの、そう扱われても仕方がないよね。」まるで、レッテルがその人すべてであるかのように論じられます。

このように、知的レベルの低い輩が、人に対して使うレッテルが「あだ名」なのです。 物事に対するレッテルとまったく同じですね。

これが特定の集団に対してなされ、レッテルを理由に不当な差別をすると、レイシストのできあがりです。

言葉狩り

世に言う言葉狩りは、差別用語と断じられた言葉(レッテル)そのものを死語にしようとする運動ですが、問題はレッテルそのものではなく、それに隠された多くの真実を隠蔽することにあるのです。 レッテルを剥がしてみると隠されていたものが、他と何も変わらないものであったり、もっと複雑で多くの可能性があるものであったりします。 そこを、理解せずに、言葉狩りだけをしても、別のレッテルが貼られるだけです。

科学における二元論とレッテル貼り

とりわけ、自然科学の分野においては、上記の二元論やレッテル貼りの論理展開が現れてくると要注意です。 そのような仮説は、眉に唾を付けて慎重に聴かねばなりません。 先に述べました、「安全神話」とか「ゼロリスク」などの0/1論理は、All or Nothing ですので、比較的直ぐにその非科学性に気が付くのですが、レッテル貼りは知らず知らずのうちに、思考を縛っていることがありますので、要注意です。

数学の例

一般的な科学の例ではないですが、最近相談を受けた卑近な例を示しましょう。

教育の現場で、極めて論理的な分野である数学の学習で、「ベクトルの内積はベクトル間の角度を出すための道具と考えて良い」と言われていることが多いです。

正しくは、「内積は幾何ベクトル間の角度を出すことにも使えます。」 と言うことです。

このように、応用例の一つだけ取り上げて、型に嵌め、レッテルを貼り、それがすべてであるように、説明するのは良くないです。 なぜなら、それ以上、知見・知性が拡がらないからです。

もっと、簡単な例で言いますと「掛け算は、金利を計算するための道具である」 と決めつけているのと同じです。

常に定量的に考える

上記の例は、論理の話で数値が現れませんでしたが、科学では、ものごとを比較するのに数値をよく使います。 科学において、数値は、より一般的にその範囲や条件を正確に示すため、方程式や不等式で表されます。

科学は、定性的な議論だけではなく、定量的に第三者が客観的に測ったり、計算できたりする数値(数式)がなければ、誰も評価しないのです。 数値(数式)が示されなければ、少ない、たくさん、とか指の数までしか数が数えられない原始人と同じです。 経済で言うと物々交換と貨幣経済との違いがあります。 まさに、知的レベルの違いですね。

もちろん、数値(数式)だけを示して説明がないのは、本末転倒です。 理論の本体である説明文の定量的な裏付けのために、数値(数式)が必要なのです。

教育で数学や物理を学ぶ理由

教育で科学を学ぶのは騙されないようにするためでもあるのです。 例えば、小学校で算数を学ぶのは、経済社会を生きていくためと言うのはすぐにわかるでしょう。 物理や科学、地学、気象学、天文学、それと歴史や地理、文化や芸術を真面目に学べば、非科学的な言説で、怪しいカルト集団や、詐欺に騙されることをある程度、未然に防ぐことができます。 最近では、「報道しない自由」などと言って憚らないマスコミの偏向報道に、惑わされることも少なくなるでしょう。

理系の仕事に就かなくても、ご自身の未来の生活を守ることができるよう、科学を学んでいるのです。

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