欲望を拝む
奈良から大阪に通勤する途中、千早赤坂村に入ったところに西楽寺という御寺があります。
この御寺の玄関脇の掲示板に、このような説法があります。
写真にありますが、繰り返します。
欲望を拝むことを非とするような文言に、少し疑問を覚えます。
「~したい」「~になりたい」「~がほしい」・・・。
大小入り乱れて様々な欲望がなかなか手に入らなければ、あるいは心の底から欲しければ自然と手を合わせるではありませんか・・・。
「無」になれという意味かもしれませんが、少なくとも例えば宝くじの抽選を前にして、無になどなれません。
特に欲するものがなくて、ただ寺社を訪れ、自然と手を合わせたとき、つまり日常生活とかなり隔絶されたところで、この境地があるのかもしれませんが。
まあしかし、こういうことを考える機会をもたせてくれたことで、この説法を掲示する意味や効果があったとみるべきでしょうか?
御寺の周辺では花々が数種咲いていました。
車の往来が激しい中、急いでシャッターを切りました。
ところで、このシャッターを切るという行為は、欲望?
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