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学校履歴書

<プロローグ>

 今まで学んだ学校を時系列に振り返りながら星を付け、さらに不遜ながら「出身校」か「母校」かの区別をする。

【1】地元市立小学校(小1〜小3一学期)  
   ☆☆☆☆☆(出身校)
 とにかく嫌な悪い思い出しかない。当然、星ゼロで在籍していただけの理由で出身校。本当は抹消したい。
 当時住んでいた地域のガラが悪く、自宅でも学校でも、ここにずっと居るのかと思うと物凄く嫌で息苦しかった。
 大嫌いな近所のガキ大将が幅を利かしていた。私は近寄らなかったので、当然、友達は一人もいなかった。
 幸い、小3の夏休みに同じ市内の山の手に親が戸建ての家を購入し引っ越してから、人生の歯車が噛み合い始めた。もし引っ越しをしなかったら、今の様な人生は歩めなかっただろう。
 その意味で、あの引っ越しが人生の第一の分岐点だったと思う。

【2】地元市立小学校(小3二学期〜小6)  
   ★★★☆☆(母校)
 同じ市内で、こうも環境が違うのかと驚いた。ガラが良く民度が高かった。
 お陰で、陰気でやる気のないと言われていた私が、元気で明るく覇気のある子供に変われた。
 友達も沢山でき、学級委員長にも選ばれるようになった。
 ただ、歴代の担任とは相性が悪かった。さほど勉強の出来ない私は相手にしてもらえなかった。しかし、運動では長距離走が速いという特性を見つけられた。
 これだけだと星四つだが、卒業後三十数年経っての五・六年のクラス同窓会の幹事をしたが、元級友どもセクハラ・飲酒運転・ストーカー・不倫など自分勝手な行動が頻発しあり、後始末が大変だった。もう二度と幹事はしない。
 総合的に考えて、星三つの母校である。

【3】地元市立中学校
   ★★☆☆☆(出身校)
 当時、地元の中学教育が「兵庫方式」という内申書重視だった。だから、常時教師の顔色を伺う学校生活で、教師も高圧的・強権的で楽しい思い出はない。
 長距離走で市内大会では入賞できる陸上競技部の部活だけが楽しかった。
 高校入試では、第一志望の地元県立高等学校以外に滑り止めで私立男子高等学校も受験した。
 幸いにも前者に合格できたが、これは人生の第二の分岐点だったと思う。
 総合的に考えて、星二つの出身校である。

【4】地元県立高等学校
   ★★★★☆(母校)
 とにかく楽しかった。高校生活の環境も級友の民度も高かった。
 女友達もたくさんできた。
 つまらない授業もあったが、二年生時のゼミの授業は人生の宝である。
 興味のある方は、下記の記事を参照して頂ければ幸いである。

 一年終了時点で、浪人しても「関関同立」は勿論「産近甲龍」も無理だと分かった。
 なりたい職業を決め、その養成校の進学を目指した。乏しい情報を受験雑誌から集め、養成校に直接手紙を出して情報の精度を高めた。
 大学進学を勧める進路指導の教師は無視して、保健室の養護教諭を味方に付け、現役のなりたいその職業人を紹介してもらい、養成校進学の意を強くした。
 公立の養成校の受験科目は、五教科七科目だったので諦め、大阪市内の三科目受験(英語・国語・理科)の私立一校に絞った。
 理科の物理と化学の偏差値は絶望的だったので、生物を選択して事なきを得た。
 結果、20名定員で受験者数500名の倍率25倍を奇跡的に突破できた。選んだ参考書と問題集が良かった。
 あとは面接指導をしてくれた教師と三年間一学期も欠かさず務めた保健委員活動のお陰である。後者が合格の決め手になったことを進学後に養成校の教員に告げられた。
 この一校受験は無謀だったが、この合格は人生の第三の分岐点だった。
 ここは、星四つの母校である。

【5】私立専門学校
   ★★☆☆☆(出身校)
 特定の職業の養成校なので、私は「職業訓練校」と割り切った。
 しかし、校章が創立家の家紋だったので、学校ではなく代々「創立家」の理事長が絶対の人治組織だった。
 学生運動や青春を謳歌したい同期や先輩後輩とは一切関わらず、三年間で卒業して国家資格を取得して奨学金の給付先に入職することだけ考えて勉学に励んだ。
 ここの三年間は、選んだ職業が間違いないことが分かったことと国家試験勉強で培った勉学法が人生の宝物になったことが収穫だった。
 この学校を卒業して得た国家試験受験資格と国試合格は、人生の第四の分岐点である。
 なお後年、非常勤講師として教鞭を取ったが、授業評価で断トツでランキング一位になった途端、専任講師どもに様々な幼稚園児レベルの意地悪をされた。決して忘れない。
 ここは、星二つの出身校である。

【6】放送大学
   ★★★★☆(母校)
 選んだ職業は天職だったし、職場にも周囲の人々にも恵まれた。
 しかし専門卒という「学歴コンプレックス」に悩まされた。
 博士号を持つ先輩の共同研究者から「大学評価・学位授与機構」を教えてもらい、放送大学で単位を取得し、機構のシステムを利用して、一年間でいとも簡単にあっさりと学士号を取得した。
 あんなに悩まされた「学歴コンプレックス」の源の学士号をあっさり取得できたので、変な欲求不満が生まれ、放送大学大学院で修士号を取得した。
 修士号を取得した途端、長年の「学歴コンプレックス」から解放された。
 本当につまらないことに悩んでいたと気がついた。しかし、修士号を取得せねば分からなかったことだと思う。
 放送大学は「安くて楽しく近い」学校だった。通勤途中ゆえ所属した大阪学習センターは、大阪教育大学天王寺キャンパスと同じ場所なので、広く綺麗ではなかったけど、星四つの母校である。

<エピローグ>

 今まで学んだ学校を時系列に振り返ってみたが、実は学歴の積み方の内省だった。
 学歴には、学校歴のみならず「学習歴」という考え方があった。
 先輩は「お前は、情報収集力と国試で培った勉強法で、大学に勝手口入学して学士号と修士号を取得した物凄くけしからん奴だ」と口汚く褒めてくれた。
 私は、偏差値が低くても修士号が取得できた。とてもうれしく思う。この記事が誰かの参考になれば幸いである。
                 <了>